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エレベーターに残る香水のにおい

部屋の扉を開けると、外はもう夕闇に包まれていた。カーテンを閉めたのは何時間前だったか覚えていない。

その日はじめての深呼吸をした。つい数日前に雪が降ったばかりだが、なんとなく春の手触りを感じた。長年の喫煙せいで肺は弱っていたが、脳みその表面をなでるぐらいの、些な刺激を感じた。

エレベーターの下階行きのボタンを押した。直前に乗ったのは8階の住人だったらしい。

8、7、6……。

俺は5階に住んでいる。これまで10回ぐらいは引越しをしてきたが、住んだのはすべて5階の部屋だ。決してげんかつぎやラッキーナンバーなどではない。ただ、空いている部屋が5階にあっただけの話だ。


エレベーターの扉が開いて、中に入る。柑橘の甘ったるいにおいが充満している。直感でわかった。

ドルチェ&ガッバーナの「ライトブルー オードトワレ」だ。

中学2年生のころ、はじめて付き合った彼女にもらった誕生日プレゼント。20年前のことだ。

香水をもらったのははじめてだった。左手首に振りかけたあと、右手首で擦り合わせるという話だけは聞いていたから、そのとおりにやった。ワンプッシュだけでは足りないと思って、3プッシュぐらいはやった。

一時限目、学年主任が担当する国語の先生の授業で終わったあと、職員室に呼び出された。「キチガイみたいな香水のにおいさせてんじゃねえ!」と一喝されたが、「いえ、家のにおいです」とはぐらかした。隙だらけの言い訳だったが、なぜか許された。


エレベーターに乗ってにおいを嗅いだ途端、過去がなれなれしく近寄ってきた。

そうだ。あれから、どれだけの時間が経ったのだろうか。


34歳にして、転職は8回経験した。離婚も経験した。つい最近は、20代のころにやらかしたキャッシングの踏み倒しで裁判も起こされた。

結婚記念に同僚にもらったティファニーのペアグラスは、今やギルビーの安いウォッカを飲むときに使っている。もう片一方は引越しでどこかにいってしまった。まあ、そんなものだろう。

チーン−−。

1階に着いた俺は夢遊病患者のように、無塩ナッツと7%のストロング缶を買いに、ファミリーマートに吸い込まれていった。











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