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ひとり暮らしのデザイン

 ひとり暮らしをしていると、自分がどこにいるのかわからなくなるときがある。ひと部屋の、仕切りのない空間に居座っていると、今いる空間が完全に外の世界と隔絶されて、わたしって本当に地球にいる?と自分自身の存在が不確かになるのだ。そして今いる空間だけがわたしの全世界になってしまう。全世界がわたしであふれて、とくに嫌な気持ちでいっぱいのときなんかは、全世界に嫌な気持ちが充満する。充満した嫌たちは、蒸し返ってぜんぶわたしに返ってくる。自分があふれてあふれてうるさい、というのはこういう状態のことである。

ひとり暮らすものの叫び!

 自分におぼれて苦しくならないためには、まず自分のかたちを確認するといい。全世界が自分なんじゃなくて、自分の輪郭はここからここまでだよ、と確かめるのだ。そして、自分の形は自分以外の「もの」によって確かめられるのだと思う。それはつまり、ものを知覚することで、知覚した自分の存在が明らかになるということだ。
 ところで、ひとり暮らしの部屋というのは、常に静かなのだ。同じものが、ずっと動かないで居座っているだけ。じっとしすぎて、部屋に溶け込んでしまっている。ものは部屋と同化してしまって、あらためてものをもの!と認識することが難しくなるのだ。(わたしもものと同じで、動かなさすぎて部屋に溶け込んでしまっているのかもしれない。部屋にはわたしもものもなく部屋があるだけ……)

 部屋にお花を飾る人はきっと生き生きとしている。造花じゃなくて、生きた花のことだ。生きた花には変化がある。つねに動きつづけるものなのだ。ずっと動いているようなものが部屋にあると、動きを感知したとき、わたしはそのものを知覚することができる。それと同時に、ものを知覚した自分がいることにも気づくことができる。わたしがものと別の存在であってこの部屋にいるんだ!、と思うことができるのだ。お花は水を変えたりしなくちゃいけない。ずっと元気なわけでもなく、少しずつしおれてやがて命を終えるだろう。その変化を見るたびに、わたしと花の間に関係性が生まれる。関係性があるってことは別々の存在ってことだ。今日も花はきれいだし、わたしは花を見てきれいだなあいい気分だなあって思える、素敵だ!

 これはわたしが最高のひとり暮らしを想像したものである。こんな暮らしがしたいです。

ものと人の関係

 わたしはどの授業ではじめて、マクルーハンのメディア論を知ったのか覚えていないが、大学一年生のときのメディア論概論という授業でメディア論についてくわしく学習したのは覚えている。メディアはメッセージである、すべてのメディアは身体の拡張である……、などメディアから人に及ぼす影響などを考えていく授業だったように思う(記憶は不確か)。
 わたしは授業を受けながら、なるほどなるほど、と思うだけで素直に授業内容を受け止めていた。そして素直に授業を聞きすぎていたからこそ、自分の中でそんなに印象に残るものがない。

 今ふたたびメディア論について興味を持ったのは、柏木博『デザインの教科書』にこんな記述があったからだ。

技術あるいはメディアの変化こそが、わたしたちの思考や感覚、生活や社会の在り方を変えるのだというマクルーハンの視点は、大変刺激的なものである。しかし、生活や社会に先立って、技術の変化があるとする視点は、時として「技術決定論」に陥る。実際には、生活や社会と技術あるいはものとの関係は相互にある。 柏木[2011], p.175

 マクルーハンのメディア論にくわしくないので、彼の言説が「生活や社会に先立って、技術の変化があるとする視点」かどうかはよくわからない。しかし、上の記述を読んで、たしかにわたしが勉強していたものは、ものから人への一方的な関係についてだったんじゃないかと思った。

 『デザインの教科書』にて上の記述が出てくる章は、ものと人との相互作用をテーマにしている。ものと人は支配・被支配関係にあるのではなく、お互いに影響を与える存在である、ということである。どうやらこの、ものと人は相互に影響を与えている、とする考えは最近になって考えられたものらしい。

 1990年頃を境として、モノ研究は新たな段階を迎える。「マテリアリティ」などの名を冠したその潮流はロンドン大学等を中心に生じたものであり、モノを人間から分離可能な客体としてとらえるのを止め(それゆえモノの比較や分類は放棄される)、モノと人間の相互作用を考えること、さらにいえばモノそれ自体を固有の力能をもつエージェンシーとしてとらえ、そこからモノと人間が作り上げる世界をとらえ返そうとするものであった。
竹沢尚一郎[2010], 「モノの崇拝の現在」『民博通信 130巻』pp.8-9
https://minpaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=246&item_no=1&page_id=13&block_id=21



  

 「ものと人間はお互いに影響を及ぼし合っている」考え方ってちょっと素敵だなあとわたしは思う。わたしは精神疾患があるために、人から助けてもらわないとできないようなことも多い。助けてもらってばかりいるとどうしても、自分って何もできないな、と悲観的な考えになることがある。助けてくれる人が支配側で、助けてもらっているわたしが被支配側なんだ、と勝手にわたしが関係付けてしまう。けれど、もしわたしと他人がお互いに影響を及ぼし合っている存在なのだと考えるなら、こんなわたしでも他人に対して何らかの影響を与えているわけで、決して無価値な存在ではないんじゃないかと。

 まだ、わたしはものと人との相互作用について深くは理解できてないけど、これからも考えていきたいトピックだと思う。


 さらにものと人との関係について、素敵な記述を発見した。

しかし自然は多様性の集合体である。人間もまたその自然物の一部である。機能は道具か人間のどちらか一方にあるのではなく相互の力が寄り合って溶けているのである。

 この記述は『デザインの生態学』の中で深澤直人さんの担当する、「多様性のデザイン――日本的ミニマリズムの思想」の中にあるものだ。わたしはこの、力が寄り合い溶けている、という表現がとても好きだ。この表現によって、影響という力は、二つの磁石のあいだの磁力みたいに引き合ったり反発し合ったりする、ベクトルとして可視化されるような力じゃなくて、水の中でたくさんのいきものが蠢いて、波紋が水全体に響き合っていくような、複雑だけどやわらかいものとして感じられる。そんなやわらかい力の響き合いのなかに、わたしもたゆたっていたい。

最高のひとり暮らし

 先に引用した『デザインの生態学』「多様性のデザイン――日本的ミニマリズムの思想」の前の章に、「ものとの距離、人との距離」がある。同じく深澤直人さんの文だ。(この章はふたつともおもしろすぎて、数カ月にわたり何度も何度も読み返している。何度読んでも自分が深層をぜんぜん理解できていない感覚があり、だからこそ何度も読んでしまう)

 この「ものとの距離、人との距離」の中にも、ものと人の相互関係に関する記述がある。

 かつては人同士やものとの距離が相互の関係を表わしていた。近寄りすぎることは無礼であり、双方が発する力のぶつかる境界線、あるいは自己の身体やものを囲む力の輪郭が見えないことは礼儀に反していたし、鈍感なことの証左であった。(略)人やものの、見えない領分の力や輪郭を見ることによって、そのもののかたちは決定されるべきである。

 つまり、わたしがひとり暮らしをしていて苦しいのは、ものとわたしとの距離がうまく保てずに、わたし自身も、ものも、どちらの輪郭も見えなくなってしまっていたからだ。すべてのものがものとして独立することなく、ひとつの塊となって固まってしまっている。塊の中にはわたしも固められている。たいへん窮屈だ。

 ものとの距離を保つことは難しい。ひとまずわたしは、床に散らばる本や紙などを片づけなければ、と思った。本は本の場所へ、紙は紙の場所へ、そうしてわたしが居座る床はわたしの場所となるだろう。(片付けってデザインだね)

 片付けって難しい。ひとり暮らしって難しい。