2020年の恋人(たち)

ほんとうに傷ついたときには、なかなかその傷にすら気づかないものだ。銃で撃たれたり、刃物で突然刺されたりした人が一瞬痛みを感じないように、受けた傷を理解するのに時間がかかる。そして、その傷が癒えるのにも、途方もない時間がかかるけれど、癒すのは時間だけなのだ。このことを、私は友人の文章を読んではっきりと知った。そして自分自身もそうであることを、私は最近になってようやく知ることになる。
今まで書けていなかったことを、きょう書こうと思う。

2014年7月、私は最愛の伯母を亡くした。伯母、という呼び名も違和感があるほどに、私にとっては母のような、時には母以上の存在だった。未婚のまま私を産むことを選択した母は仕事に忙しく、また子育て向きのことも苦手だったため、幼い頃は伯母と祖母が主に私を育ててくれた。家事や日々の食べるものなど、生活面は祖母がすべて取り仕切ったが、その他のことはほぼ一切を伯母が担った。
言葉を話すより文字を読み書きする方が早かった私に、本や漫画を惜しみなく与えてくれた伯母のおかげで今日の私がある。どんなふうに絵本を読み聞かせてくれていたかも覚えているし、夏休みの宿題が終わらないとなればいくらでも一緒に徹夜してくれた。明日テストがあるといえば、遠い本屋まで参考書を買いに行ってくれたし、「ドラえもん」の26巻が読みたいなどとわがままを言っても、電車に乗ってどこまでも探してくれた。(今のように、通販などなかった時代である。)
伯母は私にとって、まさにドラえもん的存在だった。11歳を過ぎたころに身長を追い越したくらいには小柄で、顔も身体もころころとした丸いフォルム。親友のような親のような、そしてほんとうにいつも一緒だった。私は母とふたりっきりになるのを嫌がっていたが(なんとなく気まずくて嫌だった)伯母とならいつまでもどこまでも遊べた。私が好きになったアーティストのことを一緒に好きになってくれた。足を骨折したときも、引きずってまでライブに行った。車に乗るときも、レストランでも、電車でも、いつも必ず隣に座った。私が大学に合格したとき、泣いて喜んでいた。

しかし、ドラえもんはいつまでものび太のそばにはいない。2012年、伯母の腕に病気が発覚した。私はまだ19歳だった。はじめは、少し腕が痛む程度のことで、治すのがちょっと難しいくらいの、珍しい病気くらいの認識だったので、大学に入学したばかりで青春を謳歌していた私は、さほど気に留めていなかった。
それがいつのまにか、あれよあれよと腕が腫れ、高額の放射線治療も効かず、夜中に叫ぶほどに痛むようになった。2014年に入ってからは、毎日痛む腕を押さえ、苦しそうにしているばかりで、もうなすすべがなかったのだが、私たち家族はどこか現実から目を背けていた。

私はこのときもまだ、伯母が癌に冒されていることを、知ろうともしなかった。

6月、いよいよ意識を失ったように眠ることが多くなり、これはおかしい、となった私たちで隣の県の大学病院へ連れて行った。CTを見て、お医者さんの表情が変わった。「脳神経外科に行ってください」と告げられたわずか数分後、「今日あぶないかもしれない」と言われた。末期の肺癌と脳腫瘍が、伯母の身体を巣食っていたのだった。
その後ICUに移動し、わずかに持ち直すも、1ヶ月後に息を引き取った。私は当時、このことをほぼ誰にも言っていない。一日に100はつぶやいていたTwitterにも、まったく書かなかったのを覚えている。私を含め、家族みんなどこか信じられなかった。そしてそのときからほぼ毎日、伯母が夢に出てくるようになった。

その後、私の就活を経て、祖母にも癌が見つかり、入院、手術、私の退職、さらに入院、介護と重なり、2019年についに2人家族になった。付き合いのあった近い親戚は、度重なる不幸などが災いして心を病み、今は縁遠くなっている。その間も、ずっと伯母は夢に出続けた。不思議なのが、夢に出てくる風景は過去のものではなく、今のものなのだ。祖母を一緒に介護していたり、病院に連れて行ったりしている。私はそれらの不思議な夢の光景を、パラレルワールドだと捉えていた。今もどこかの世界線で、伯母は生きているのだと、そう思っている。

そんな、10代後半から20代にかけての喪失の中で、将来の目標としての「夢」の意味も変わっていくことになる。

私には結婚願望がなかった。家族に不満や不足を感じたことはなかったし、母が未婚なのもあって、結婚にいいイメージを描いたことがあまりなかった。女系家族なので、家に男性がいるイメージも、あまり湧かなかった。
しかし、家族をひとりふたりと失っていく中で、自然にと言うべきか、家族が減っていくばかりは嫌だなあ、と思うようになった。近い親戚に若者は少なく、赤ちゃんも長いこと見ていない。法事に集まるのはお年寄りばかりで、子沢山の親戚がいる友達がうらやましかったりした。あの活気が、私もほしい。
そう思っていた最中、春に恋人ができた。今までの、浮ついた、ときめきだけを求めるような関係ではなく、一つひとつ積み重ねるような関係を築いていける恋人。あらかじめ決まっていたかのように仲良くなって、それが自然の摂理であるかのようにそばにいる。こんな感覚を他人に、ましてや男性に覚えることは初めてで、でも戸惑うこともなく、安定した関係が続いている。付き合って直後、向こうは結婚の言葉を出したが、それすらも自然の流れにしか思えずすぐに受け入れてしまった。

付き合って1ヶ月くらい経った頃だったろうか。「あれ、もしかして」と気づきかけたことがあったが、付き合いたて特有の浮つきと錯覚のようなものかなと思い、誰にも言わずにそのときは胸にしまった。
しかし、付き合って3ヶ月ほど経ったころ、恋人の写真を母に見せると、ポツリと言った。
「伯母さんに似てるね」
やっぱりそうなんだ、と思った。母が言うなら間違いない。私より小柄で、ドラえもんのように丸っこく、そして顔つきがとても似ている。手先が不器用なところや、私が見たいものや欲しいものをすぐに探してくれるところも。名前もそういえば一字違いだ。隣にいると安心する理由は、これだった。

このことに、付き合ってからも気づいていなかったことに、我ながらおどろいた。と同時に、私は6年前、本当に心根の深いところで傷つき、身体の一部を喪っていたのだと、そしてずっとずっと知らず知らずのうちに求めていたんだとようやく理解した。いつのまにか30年近く生きて、いつのまにかものすごく傷ついていたんだと。そのことに気づいてはじめて、ようやく6年前のことをこうして他人に言えるようになったんだと。ゼロから描いた目標を達成することだけじゃなくて、喪ったものを埋めようとするのもまた人生なんだと。

捨ててしまったもの戻ってこないけれど
なくしてしまったものなら急に帰ってくることあるんだぜ

トブヨウニ/吉井和哉


小学1年生から電車通学していた私に、伯母はいつも駅まで着いてきてくれた。帰りも必ず、駅の改札まで迎えに来てくれて、いくらもういいと言ってもそれは高校を卒業するまで続いた。
今、恋人はいつも改札口まで見送ってくれる。さよならした後に何度振り返っても、こちらに向かって笑顔で手を振っている。
その姿が伯母と重なって涙ぐんでしまうことは、恋人にはまだ内緒だ。



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