米津玄師「恥ずかしくってしょうがねぇ」を聞きながら

「あんな大人にはなりたくない」と嫌悪を越え憎悪を持っていた10代から見た現在の私は、果たして理想的な大人に成れているか?
理不尽を押し付けたまま、何の責任も持たずに逃げた、あの人達のように成ってはいないか?

大丈夫、きっとあの人達のようには成っていない筈だ、と思い込ませようと丸めて紙クズが溜まっている気がする。10代の私が描いた中年の私は本当はかなりかけ離れてはいるだろう。金銭的に、精神的に、自立する事が出来ていない現在に幻滅するだろう。

ただ、毎日毎夜欲しくて仕方無かった「愛情」をやっと知れたことだけは誇っていい。今、幸せ(しやわせ)を噛み締めている。自分以外に頼ってもいい人を見つける事が出来たんだぜ。凄い事だろ、信じられないだろ。
「1人で生きていく」なんて思っていた無謀な私でも、簡単では無かったが手を伸ばしてくれる人が居る。
支えられ心配してくれて愛してくれて、私と云う人間を考えてくれる、そんな恋人が居る。

本音を言えば、あの頃1番飢えていた「愛情」。
どうにかこうにか捻じ曲げ歪んで選んだ「自立」は今、彼の愛情や周囲のサポートに寄って徐々に現実味を帯びている。

誰にも頼らず「1人で生きて行く」事は、きっと不可能だ。「強くなれば」「お金が有れば」そんな事を思いながら働いていた20代。欲しい物は幾らでも買えた。遊び尽くしたり、豪華な温泉旅行なんぞも行けた。でも何か足りない。その「何か」が分かっていないまま、働き過ぎて病気を発症した。

本当の所、ただの働き過ぎで病気になったのか不明だ。昔から始まっていたのか知れないし、ADHDなんて元からだったのに気付けなかっただけかも知れん。

色々な病気を併発して、更に「愛に飢えてゆく」状態が続いた。とうとう「誰も愛してくれないなら、私が自分を愛してやろう」と思うようになり、益々人に頼らなくなった。それで良いと思っていた。自分1人なら全て自己責任で済む。「愛情には縁遠い人生だな」と実感しながら、しかし、それで良いと思っていた。

2023年01月16日現在、人生で初めて他人から愛されている現状に、くすぐったく恥ずかしい、けれど「愛」とは、こんなにもシヤワセなものなのか、と彼に感謝している。

恥ずかしくってしょうがねぇ。

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