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空っぽになるまで

土壁は剥がれ、床板はきしむ。戦前からありそうな一戸建ての父さんの実家。小学生の頃は、その座敷でちゃぶ台を囲みトランプをするのがお決まりだった。

父さんも母さんもおじいちゃんも叔母さんも、笑い声を上げてカードを取り合った。ところがおばあちゃんは、自分の番にも気づかないし勝っても少しも喜ばない。くすんだ色のカーディガンにぼさぼさの白髪を一つに束ね、いつもどこか宙を眺めていた。

「これー、おいしーわー」

みんなで食事をしていると、おばあちゃんが口を開いた。間延びして抑揚のない声は、なんだかスロー再生のよう。母さんが料理の作り方を伝えたけれど、聞こえないみたいに箸を動かしている。

「コココ、コレ、オオオ、オイシイワ!」

知的障害がある叔母さんが、大声で叫びニカッと笑った。お父さんの姉で、おばあちゃんの娘。もう50歳近いのに少年のようなおかっぱ頭だ。誰かが言ったことを繰り返すのが癖で、しょっちゅう吃るし急に奇声も上げる。だからみんなは丁寧に相槌を打ち、心配そうに見守る。

でも、おばあちゃんは違う。「ハイ、ハイ」と生返事で目も合わせない。寂しそうな表情を浮かべた叔母さんが、かわいそうだった。自分の娘なのにどうして? 小学生の僕は思った。おばあちゃんは人間の姿をしているけど、心は空っぽなんだ。

大学生になって、久しぶりに父さんの実家を訪れると、おばあちゃんは軽い認知症になっていた。夕食の間も何も話さずうなだれて、ぼんやりすることがますます増えた。

「最近体調はどう?」

「ボボボ、ボチボチヤナ!」

食事を終えて、母さんが叔母さんと話を始める。父さんとおじいちゃんは、僕に学校の様子を訊ねる。何ということのない実家の時間が流れている最中だった。

「生まれたときは、普通やったんよ」

突然、おばあちゃんが話し出した。みんな一斉に振り向く。でも、お構いなしで続ける。叔母さんはちいさい頃に熱を出し、診てもらった医者に間違った薬を注射されてしまった。そのせいで、一生消えない障害が残ったそうだ。

「この子はなんにも悪くないのに。取り返しのつかへんことしやがって、ふざけるなよ」

目の前にその医者がいるみたいに言い放ち、唇を噛み締めた。みんなじっと黙っている。初めてだ、こんなおばあちゃんは。しばらくして母さんがなだめると、やりきれないような泣き出したいような顔をした。

はっとした。おばあちゃんは空っぽだったわけじゃない。娘に起きたことに毎日怒り続け、悲しみ続けていた。きっと一生分の、ありったけの感情を使い果たしてしまったんだ……。


数年後、病気を患っていたおばあちゃんは静かに息を引き取った。85歳だった。ときどき不思議に思う。なぜあの日、突然昔の話をしたのだろうか。もうすぐ最期になるからと、神様が気を利かせてくれたのかもしれない。

心に触れられたのは、一度きり。でもその心は、誰よりも愛情でいっぱいだった。いつも下を向いていたあの姿を、今でも僕は誇りに思っている。

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