完璧よりいい
ドンッ! 急ブレーキでつんのめる。「またか・・・」と前を見る。割り込んできた車に、運転手がプーッとクラクションを鳴らした。
妻の希望でベトナム・ハノイへ旅行。移動に利用したのは配車サービスだ。スマホから目的地を指定すれば、近くにいる車が迎えに来る。決まった乗車賃をWEBで決済すれば、言葉の通じない運転手と会話する必要がない。安心で便利そうだと、妻に薦められた。
しかし、道路には車やバイクが溢れる。少しでも隙間があれば割込み、対向車線だって平気で走る。歩行者も信号や歩道に関係なく横断するので、急ブレーキとクラクションが絶えない。だから乗車中はいつも落ち着かないのだ。
最終日の晩、ホテルへの帰り。迎えに来たのは初老の白髪の男性だった。だが背筋はシャンと伸びていたし、他の運転手のようなジーパンにTシャツではなく、スラックスとボタンシャツを身に着けていてとても紳士的だった。十分に車間距離を取るので、急ブレーキやクラクションも使わない。こんな穏やかな運転をする人もいるんだ、と驚いた。
途中、急に妻がバインミー(ベトナム名物のサンドイッチ)を買いたいと言い出した。ルートを外れるが、機嫌よくお店に寄ってくれた。乗車賃が決まっているのに申し訳ないと、妻は彼にもバインミーを買った。しかし、「お腹がいっぱいだから」と笑って遠慮する。その表情や仕草には余裕が感じられ、人柄というのは服装や運転にも現れるものだなと私たちは感心した。
「これは感謝の気持ちですから」
ホテルに到着しチップを渡す。しかしすぐに返された。また遠慮をしていると思いもう一度、今度は少し強引に渡す。すると、いきなり彼がわめき出した。内容はわからないが、あきらかに不満そうだ。強引に渡してまずかったかな…。不安な気持ちが湧いてきたところに、ホテルのドアマンが来てくれた。運転手からチップを受け取り、私に通訳する。
「これではお金が足りない」
どうやら運転手は、チップを乗車賃だと勘違いしたようだ。配車サービスは現金でも利用できる。慌てて私は、WEBで決済していることをドアマンから説明してもらう。すると運転手は車内にある端末を操作する。決済されていることを確認できたようだ。急に大人しくなり、どうしていいかわからないような表情になった。
配車サービスが普及したのはここ数年。彼の年代だと、端末を導入したのは遅かっただろう。操作をマスターするのに時間もかかるだろうから仕方ないと思いやりながら、私たちは車から降りる。それを見届けると、彼はドアマンの手にあるチップを掴み取り、その場から走り去っていった。
呆然とする私たち。しかし、腹が立ったりショックに感じたりすることはなかった。
「途中までいい人だったのにね」
妻の言葉に、彼のどうしていいかわからないような表情が思い出され、微笑ましい気持ちになる。
「完璧じゃないほうが、人間味があるんだよ」
部屋に戻り、彼が受け取らなかったバインミーをじっくり味わった。
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