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逍遥-seueu-

ここ数時間、降り続いている雪のせいで
足元には泥濘の悪路が広がっている
自重により雪に沈みゆく身体は
これまでに犯してきた過ちと怠惰が
肩に乗り重みを増しているようだ
というのは嘘で
単に自重で雪に沈み込む話だったりする
解けた雪がブーツに染み込んでとても冷たい

一年の計は元日で立てるというのが
古来から日本の習わしっぽいが
年末年始を毎年ダラダラ家で過ごしていると
まともに計画が立てられた試しがない
前日のアルコールが抜け切れていない頭で
ジャストアイデアな計画を立てても
三日坊主もとい翌日には忘れていたりする
無駄に自己嫌悪を増幅するだけだ
そうやって適当に作った今年の目標を
下ろしたての手帳の1ページ目に描き始める瞬間だけは
なぜだか達成感がある(1日限定)

区切りが悪くても「思い立ったが吉日」
来月やろう、来年やろうは半ば先送りを孕んでいる
気持ちが萎える前にはじめたい
兎に角はじめる瞬発力に勝るものはないと思う

もうひとつ
高めに見積もった意識のおかげで
インプットとアウトプットの反復運動の末
習慣的な持続体力だけは付くものの
取り入れ吐きだすモノの質の担保に関しては
全くの別問題で玉石混合のとっちらかし
ひたすら手を動かすだけでは
同じ顔の金太郎飴を量産しているだけで
そこから学べるものの天井は圧倒的に低い

「継続は力なり」というが
本来の筋力をつけたい場所を読み間違えると
ただのくたびれ損にしかならないし
とにかく手を動かし続けるというのは
一方では正しい行為であるけれど
所詮手始めのフェーズ1であって
延々と最初のフェーズを周回するのは
時間と労力の浪費としか言いようがない
そろそろ書きたいものと読みたいもののハードルを
自ら引き上げる時期なんだと思うんだ

自分の中から吐き出すモノの毛並みに
ちょっとした遊びを作りたい
とはいっても意図的に造作するのは
なかなか難しいもので
他者の物語を語れば上から目線の大喜利で
自分の物語を語れば自分語りが鼻につく
物語に対する態度と進入角度の問題は
想像するよりずっとハードルが高い
どちらに転んでも怪我をするなら
好きな方に倒していけばいい
擦り傷を作らずには
逆上がりも出来ないし、自転車にもうまく乗れない
コンフォートゾーンというぬるま湯から
這い上がるには自らを奮い立たせるしかない
ねぇ、そうでしょう?三島由紀夫

この世に救いはあるのかという大命題
何千年も前から人は救いを求め
ありとあらゆる方法と創造をしてきた
強烈な救済を生み出すには相応の絶望が必要で
平安時代末期頃には
ブッダの教えが口伝を繰り返すことによって薄まり
もはや自力で悟ることは不可能で救いの道は無いとする
末法思想というディストピアが生まれた
自助努力では八方塞がりになった結果
阿弥陀に救いを求める信仰が始まった
後に他力本願という衆生救済の思想が広まった
大きな拠り所を必要とする思想が
1000年前からこの国にはある

それから大きな拠り所は姿形を変えて常に人々の側にいた
それは天皇というものであったり、マルクス資本主義であったり
霊的な大きな存在であったり
だけども1960年代、1969年頃に大きな拠り所は分解された
いわゆるビックブラザーが時代と共に壊死したんだ
人々は外界に寄りかかるモノを失い
自己の内面に拠り所を求めるしかなくなった
何が原因か、誰のせいかなんて陳腐な事は言えない
ただ時代が流れただけだ
問題は全員が内面に拠り所を作れるわけじゃなかったから
壊死したビックブラザーを再構築しようとする動きがあって
それは1995年に一種のピークを迎え
大きく膨れ上がって、時代とコンフリクトした結果
大きな傷跡を残した

個の中に拠り所を作り続けることと
外に多数の受け皿の拠り所の復活をさせることの
平行作業は今もまだ続いていて
時折小さな火花が散る
それはまだ完全に時代が移りきっていないが故の
過渡期特有の風景なんだと思う

ボクは拠り所となる物語を語りたい
語れるようなものを自分の中に創造したい
誰の為でもない自分の拠り所となる物語をだ
今年の目標とかちっぽけなモノではなく
もっと大きな目標だ
否、目標ではなく生きることと同義なんだと思う
死ぬまでに達成できるかわからない
ただ達成が目的ではない
死ぬまで走れる道のりが欲しいだけだ


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