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責任、もしくは信じること――アニメ『進撃の巨人 完結編(後編)』感想。


はじめまして。ガム999です。

先日、TVアニメ「進撃の巨人」The Final Season完結編(後編)[*] が公開されました。これで、『進撃の巨人』本編については、ひとまずの完結を迎えたと言えるでしょう。
* 以下、《アニメ完結編(後編)》と呼びます。また漫画『進撃の巨人』を《漫画原作》と呼びます。)

アニメPVにて「自由の奴隷」という漫画原作にはない発言があったことで既にアニメオリジナルの展開は示唆されていましたが、実際、特に後半にかけて大幅なオリジナル展開があり、漫画原作を読了している方々ではそのことについても少し盛り上がりがあったようです。かく言う私も漫画原作を先に読んでいましたので、PVの件も相まって、今回の《アニメ完結編(後編)》はとても興味深く視聴しました。

(PVで発言された「自由の奴隷」という言葉について、私の見解を書きまとめています。後述しますが訳あって本記事では「自由の奴隷」について中心的に触れることがないと思いますので、「自由の奴隷」という言葉や、『進撃の巨人』において〈自由〉とは何なのかについて興味を持った方はこちらの記事を御覧ください。今回の《アニメ完結編(後編)》を受けての感想も含め、若干の加筆修正をしています。)


本記事は、《漫画原作》と《アニメ完結編(後編)》を比較して、アニメオリジナル展開は一体どういったことを描き出そうとしたのかについて、私なりの感想をまとめた記事になります。そしてそこから少し視野を広げて、『進撃の巨人』とはどういったものだったのか?ということについて、作品全体における私の所感を少し書き残しました。


本題に移る前に、まずは本記事についての前提をお話しておきます。
本記事では、とりわけ「原作者の意図とは一体何だったのか?」というようなことについては、極力避けた書き方を心がけております。これは私の作品鑑賞に仕方によるものですが、あくまで漫画『進撃の巨人』とアニメ『進撃の巨人』”そのもの”を鑑賞した上で、そこから何が読み取れるのか?という視点に努めています。漫画原作者の存在について一部参照する部分はありますが、中心的に取り挙げることはありません。よって「原作者(諫山創)は『進撃の巨人』でどういうテーマを描きたかったのか?」の直接的な回答については、本記事はお役に立てないかもしれません。ご了承ください。


では、よろしくお願いします。







エレンとアルミンの会話――〈責任〉について


「地ならし」とは何なのか――”行為”と”結果”の視点


《アニメ完結編(後編)》において、或いは『進撃の巨人』そのものについて最も印象的なシーンの一つは、「道」でのエレンとアルミンの会話 [*]でしょう。作品が訴えかけようとする主題(テーマ)を、作品の登場人物であり中心人物である彼らが直接語り合う場面は、多くの人が注視するシーンとなっていることだと思います。
* 以下、【「道」の会話】と呼びます。)

《アニメ完結編(後編)》では、この部分に大幅な変更が加えられました。まずは、この【「道」の会話】について、《漫画原作》と比較しながら私の抱いた感想等を述べていきます。
比較するにあたって、《漫画原作》の展開を知っていることをある程度前提として進めていきます。ご了承ください。

(余談ですが、この【「道」の会話】を含め、《漫画原作》の最終話付近は、連載時から単行本化にあたって多くの加筆修正が施されているようです。私は連載を読んでいたわけではありませんので、実際にどこがどのくらい変更されていたのかについては詳しく取り挙げる予定はありませんが、ともかく、完結の仕方についてかなり拘っていたことが伺えます。


比較に向かう前にまずはオリジナル部分を振り返っておくと、(変更部分を文字で書くことは少し難しいのですが、ざっくり言えば)変更部分は、周り一辺が地ならし後の血の海になるところからです。

『「進撃の巨人」The Final Season完結編(後編)』part4 より

エレン「8割だ」
アルミン「……え?」
エレン「人類の8割を踏み殺した」

『「進撃の巨人」The Final Season完結編(後編)』part4 より

《漫画原作》では、血の海以前はアニメと共通、それ以後については「どうしてもやりたかったんだ」と「抱き合うシーン」のみ共通しております。(「地獄で償う」等はアニメオリジナルです。)


このとき、私たち視聴者が《アニメ完結編(後編)》に対して最も強く抱く《漫画原作》との印象の違いとは、地ならしがエレン・アルミン、そして視聴者にとってかなり否定的に描かれているという点だと思います。

良いか悪いかはさておき、《漫画原作》においてエレンは自分の起こした地ならし対して(自己批判的な言葉を)多く語ることはしませんでした。一方アルミンも(絶望した表情は見せつつも)エレンに強く反発することはありませんでした。具体的には「他の道がないか探そう」と(同情的に)説得を試みたり「何で(地ならしをやりたかったの)?」と問うたり、そして最後に、「ありがとう」「君の(最悪の)過ちは無駄にしないと誓う」と伝えていました。


《漫画原作》の【「道」の会話】について、(私の観測する限りでは、)一部読者から「地ならしの惨状に比べてあっさりしているのではないか、反省が足りないのではないか」と(倫理的観点より)批判されていたように思います。

しかしアニメオリジナルでは、一転、アルミンは地ならしの結果とそれを起こしたエレンに強い憤りを見せており、エレンは地ならしという結論に至った自身を責める言葉を多く語っていました。

『「進撃の巨人」The Final Season完結編(後編)』part4 より

アルミン「人がいなきゃ戦争は起きないだと?こんな冗談真に受ける奴があるか!」
(中略)
エレン「…バカだからだ。どこにでもいるありふれたバカが力を持っちまった。だからこんな結末を迎えることしかできなかった。そういうことだろう…」
(※強調筆者)

『「進撃の巨人」The Final Season完結編(後編)』part4 より


拙稿の〈自由の奴隷〉noteでも中心的に論じてきましたが、私は《漫画原作》の最大のテーマは、「〈自由〉とは何か」であると思っています。その理解の上で、【「道」の会話】の核心とは、「どうしてもやりたかった」だと考えています。全て決まっている未来の中で、地ならしをどう受け止めるのか――それは「エレンの純粋な望み(原初的欲求)だった」というように。漫画では、「地ならし」という”行為そのもの”と「自由」を強く結びつけて読み解くことができました。

しかし《アニメ完結編(後編)》では、地ならしのもたらした”結果”にフォーカスが当たっていたように思います。言い換えれば、「地ならし」という”大虐殺”をどう受け止めるべきなのかという点が、【「道」の会話】の中心にあったように思います。だからこそアルミンは地ならしの(大虐殺という側面の)悲惨さに憤るし、エレンは「それを引き起こした(悪としての)原因は何だったのか」を語ったのだと思います。

私は「漫画原作で”足りなかった”二人の反省を追加した」と主張したいわけではありません。エレンもアルミンも、あのとき言葉にしていないだけで、内心は似たことに思いを巡らせていたかもしれませんから。
しかし少なくとも、「アニメ完結編(後編)」は、地ならしという結果がもたらす(道徳的な)悪的側面に焦点を当てて描こうとした、ということは言えると思います。


つまり、《漫画原作》と《アニメ完結編(後編)》比較したとき、

”行為”としての「地ならし」と、”結果”としての「地ならし」。同じ「地ならし」にも2つの見方があり、《アニメ完結編(後編)》は、特に後者に焦点を当てて描いた。


そういったことが言えるのではないか、というのがまず私が抱いた感想でした。

(ところで、アルミンの「こんな冗談真に受ける奴あるか!」は、台詞の印象か声音からか、ハンジの「虐殺はダメだ!! これを肯定する理由があってたまるか!!」(32巻 第127話)を思い起こしました。この台詞を参照しているのかは定かではありませんが、同じ調査兵団団長(つまり人類代表)として、地ならしの受け止め方が重なっているのかもしれません。)



責任の所在――託されるか、共犯か


ここまでの、「地ならしが《漫画原作》以上に悪いものとして書かれていたよね」というようなことは、多くの人が言語化するまでもなく直感的に理解しているところかもしれません。しかしもう一つ、アニメオリジナルで焦点が当てられていた部分があると思います。というより、地ならしの”結果”を描こうとするにあたって、必然的に描かざるを得ない部分だと言えるでしょう。それは地ならしという虐殺の責任を誰が引き受けるのか?ということです。

「エレンは自由を取り戻すため(或いは自由を感じるため)、地ならしという”行為”をする必要がありました。それが大虐殺をもたらすの”だとしても”」。私は《漫画原作》におけるエレンの地ならしの理由は概ねこのようなものだと思っていますが、これを肯定するとき、地ならしの”結果”――大虐殺という大悪はどう思っているのか?――について道徳的(倫理的)な批判を受けることは余儀なくされることでしょう。

《漫画原作》でも少し描かれていますが、《アニメ完結編(後編)》ではより地ならしの”結果”にフォーカスが当たっているために、その責任を引き受ける点が、必然多く描かれることになります
そして、単に「責任」とは言っても、どの視点から捉えるのに従って責任の形も変わっていきます。だから、”行為”における責任と、”結果”に対する責任は、少し異なっている。

ここでは、《漫画原作》《アニメ完結編(後編)》において、「責任」とはどのように異なるのか、またそれらの「責任」をどのように引き受けるのか、これら違いを見ていくことにします。


まずは《漫画原作》についてですが、ここではひとまずエレンが責任を一心に引き受けているように思います。

(諫山創『進撃の巨人』34巻 最終話, 講談社, 2021年)

エレン「オレは… 許されるわけがないだろう…」
(※強調筆者)

(諫山創『進撃の巨人』34巻 最終話, 講談社, 2021年)
(諫山創『進撃の巨人』34巻 最終話, 講談社, 2021年)

「…エレン ありがとう
僕達のために… 殺戮者になってくれて…
君の最悪の過ちは無駄にしないと誓う」
(※強調筆者)

(諫山創『進撃の巨人』34巻 最終話, 講談社, 2021年)


特に後者が象徴的ですが、《漫画原作》について、地ならしそのものは「エレンの起こしたことである=エレンの責任である」という理解が、少なくともエレンとアルミンの間で合意されているように思います。(後述しますが、【ヒストリアの手紙】を参照する限り、おそらくヒストリアについても。)

《漫画原作》における地ならしは”行為”的側面が強調されているという話をしましたが、”行為”だけに焦点を置くとき、行為の主体自体はエレンただ一人です。エレンは地ならしについて、「自分で自分の背中を押す」(24巻 第97話)や、「全てはオレが望んだこと」(32巻 第130話)、「どうしてもやりたかった」など、エレン自身の〈意志〉に地ならしの最終的な要因を見出しています。だからこそ、少なくともエレンに限り、これは誰か/何かのせいではなく、エレンただ一人のせいでなくてはいけない。

”行為”における「責任」とは、「まさに誰がそれを実行したのか?」という主体が背負うものです。だからこそ、主体の〈意志〉が、最も重要な要素になります。
また、”行為”なくして”結果”もありません。”行為”の側に焦点を当てるとき、「行為→結果」という構造によって、地ならしの結果も”行為”の主体=エレンのみが(基本的に)引き受けることとなる。


ここまで”行為”に比重を置いたときの「責任」の仕組みについて説明してきましたが、このように「エレン”だけ”の責任である」という言葉だけを見ると、なんだか薄情のように聞こえるかもしれません。(実際捉えようによっては薄情であるかもしれません。)
しかし、単に無責任だとか責任の放棄だとか主張したいわけではありません。大事なこととして、ここでは、責任は「引き継がれている」。

アルミンは、(意図的かそうでないかはさておき、)その前提の上で「責任」を貰い受けようとします。

アルミンの「責任」は、エレンとは全く同じ「責任」ではありません。先述の通り、地ならし”行為”の責任はエレンのみが背負うものであり、そして”行為”に焦点が置かれているとき、行為→結果という観点から、”行為”の主体であるエレンが、連動して”結果”についての責任も背負うことになる。

とはいえ、エレンに地ならしを選択させるに至った世界(状況)にアルミンたちは生きていて、また結果的に地ならしの恩恵に一番預かるのはアルミンたちです。そういう意味において、アルミンは地ならしと全く無関係だということはできないでしょう。
だからこそ、アルミンはここで、「無駄にしないと誓う」という言い方をします。地ならしそのものに対する責任ではなく、地ならし後の世界に対する「責任」を背負う。
エレンとは地ならしとの関わり方が異なるからこそ、当然責任の取り方も異なるのです。
しかし異なる責任は、地ならしという一点を介して繋がっている。

地ならしの責任は、エレンからアルミンへ、「地ならし」から「地ならし後の世界」に「引き継がれる」という仕方で、繋がっています。
ここでは、この構造を「責任のバトンタッチ」と呼んでみたいと思います。

(以前X(旧Twitter)にて「アニメ完結編(後編)」の感想を投稿したのですが、その際は、「責任のバトンタッチ」という言い方を用いていました。「バトンタッチ」の方が「引き継がれる」よりは少し構造がわかりやすいかもしれないと思ったので、一応併記しておきました。)


一方アニメでは、明示的に、「二人のせい」という描き方がなされています。(こちらも【ヒストリアの手紙】を見る限り、ヒストリアにおいても。)

『「進撃の巨人」The Final Season完結編(後編)』part4 より

アルミン「誰もいない自由な世界を、エレンに想像させていたのは、僕だ。」
(中略)
アルミン「あればだけど……地獄で。8割の人類を殺した罪を受けて苦しむんだ。」
(中略)
エレン「ああ、先に待ってる……。地獄で……。」
アルミン「うん。ずっと、一緒だ……!」
(※強調筆者)

『「進撃の巨人」The Final Season完結編(後編)』part4 より


このとき、地ならしそのものの責任が共有されている――つまり「共犯関係」であると言っていいでしょう。

アニメオリジナルでは「やりたかった」等の”行為”=自由としての地ならしはあまり焦点を当てられていませんでした。そして地ならしの理由についてエレンは、「ありふれたバカだから」という、「普通の人間」であり「愚か」という点に求めていました。これはエレンを、普通の存在としての側面を強調する=普遍的存在だと捉え返す試みでしょう。(16巻~18巻の王政編におけるエレンの「普通」テーマの再演。)
普遍的だからこそ、アルミンやすべての登場人物、或いは視聴者はそこに共感・共有することができます。そのとき、アルミン(とすべての登場人物、そして視聴者)は自分は地ならしを起こす可能性があると捉え直すことになります。そして誰しもが地ならしを選択する可能性があるならば、その状況を作ってしまったことも地ならしと同罪であるというような仕方によって、地ならしそのものの責任を自分の方へ引き受けようとする。

”結果”に焦点を置くとき、責任に大切なのは”行為”に限りません。もちろん”行為”は”結果”が起こる一つの理由ですが、あくまで一つの理由です。他にも環境や周りの人の言動など、様々な理由が混じり合って一つの結果が引き起こされます。”行為”と状況は、”結果”に対し等しい価値――一つの理由である――を持つことになります。つまり状況を生み出すことも、”行為”と同等の責任を背負う同罪=共犯関係を持つという論理です。

かくして、エレンとアルミンの共犯関係は形成されています[*]


《漫画原作》では、ある意味エレン固有の望み――「自分で自分の背中を押す」という形式的な「自由」と、純粋な原初的欲求としての「自由」――が地ならしの理由の中心部にありました。「固有」、つまりエレン一人だけが持つ特殊な理由です。だからこそ地ならしの責任(要因)はエレンだけが負うことができるし、また負うのでなくてはならない。それ故にアルミン(すべての登場人物・視聴者)は同じ罪として背負うのではなく、「無駄にしないと誓う」とその後の世界の責任として引き継ぐ。

一方《アニメ完結編(後編)》では、地ならしの理由は普遍的理由――人はみな普通で、ときに愚か――によって説明されています。これは道徳的な視点によって地ならしを評価しようとする試みでしょう。(道徳とは、いつでも、どこでも、誰もが従わなければならないものである。)特に『進撃の巨人』世界は「すべての未来が予め決まっている」決定論的世界であるために、地ならしがエレンの固有さの壁を飛び越えて、地ならしの責任を全ての人が共有することができます。(その責任とは、とりわけ「悪」の責任について。)
かくして、エレンもアルミン(すべての登場人物・視聴者)も共犯(同罪)としての責任を押し広げていくことになります。



改めてこれまでの内容を振り返っておくと、

《漫画原作》では、地ならしを”行為”の側面から見るため、地ならしの責任は「望んで行った」エレンのみが背負うことになる。アルミンは、その後の世界に対する「責任」という形で、エレンの責任を異なる形で引き継いでいく。(「責任のバトンタッチ」。)
《アニメ完結編(後編)》では、地ならしを”結果”の側面から見るため、地ならしの責任は「その結果に至る状況を作った」エレン・アルミン両者(そして全ての人)が背負うことになる。特にエレンは地ならしを起こした理由を「ありきたりでバカ」=普遍的性質に求めたことで、地ならしの道徳的な側面がより照らし出され、また地ならしそのものの責任を共有する=「共犯」性が色濃くなる。


【「道」の会話】について、《漫画原作》《アニメ完結編(後編)》を比較して私が思ったことは、以上のようなことでした。



* 以下、「共犯関係」についての余談です。気になる人だけお読みください。
ところで、このときの共犯関係というのは、アルミンのセリフから伺う限りは、かなり個別に対応した形で成立しているように見えました。対応関係は、以下のとおりです。

【エレンが地ならしをした理由】
1. エレンが地ならしを引き起こしたのは、「どうしてもやりたかった」から
2. エレンが〃(同)、「ありふれたバカ」だから
3. エレンが〃(同)、「決まってい」て、「仕方がなかったから」

【アルミンとの共犯関係】
→アルミンは、自分も「この世から人を消し去ってしまいたかった」と思ったことがある(「1.やりたかった」と「2. ありふれたバカ」の共通=同罪)
→アルミンは、「エレンに想像させていたのは僕(アルミン)だ」とする(「1. エレンの「やりたかった=原初的欲求」の原因」+「3.「道」の「過去・現在・未来同時」世界(決定論的世界)の起点のなさ」)

わざわざなぜこのことについて言及したかというと、とりわけ「エレンに想像させていたのは僕(アルミン)だ」という言葉が、『進撃の巨人』における〈自由〉の理解について、(《漫画原作》の)エレンのそれとはかなり異なっていることを示すような言葉だと思ったからです。『進撃の巨人』における原初的欲求の描かれ方(エレンと自由、グリシャと飛行船。広義にはアルミンとかけっこ・外の世界、ジークとキャッチボールなど)を見る限り、「起因を求めない、生まれてきたと同時に備える欲望」というような印象だったのですが、今回《アニメ完結編(後編)》にて、エレンの「やりたかった」をアルミンが本を見せて「外の世界を想像させたから」という点に原因を求めようとする台詞は、包み隠さず言えば、かなりの衝撃でした――アルミンにとっては、エレンはほとんどの意味で「自由」ではなかったのかもしれない。
この台詞の是非については触れるつもりはありませんが、少なくとも言えることは、《アニメ完結編(後編)》では、〈自由の奴隷〉発言も含めて(《漫画原作》におけるエレン的な)「自由」のテーマはかなり薄らいでいるか、若しくはアルミン的な「自由」理解に寄っており、そしてかなり厳密に「共犯」を描こうとしたのだということだと思います。)





ヒストリアの手紙――呼応


【ヒストリアの手紙】も、漫画原作から大幅に追加・変更が加えられています。
具体的には、「戦え 戦え」以前はすべて同じくしており、それ以降の文章が変わっています。
本章での私の主張とは、ヒストリアの手紙が、「道」での会話とかなりの部分で連動しているということです。

まずは変更部分を見ていきましょう。以下のとおりです。

・漫画原作

エルディアと世界 どちらかが消え去るまで この戦いは終わらない
エレンの言ったことは 正しいのかもしれない
それでもエレンは この世界を私達に 託すことを選んだ
今 私達が 生きている
この巨人のいない世界を

(諫山創『進撃の巨人』34巻 最終話, 講談社, 2021年)

・「アニメ完結編(後編)」

巨人がいなくなっても争いはなくならない
エレンは知る限りの未来を私に伝えました
それ以上先の未来まで見ることができなくても
この未来だけは鮮明に見ることができました
きっとこの結果はエレンだけの選択ではありません
私達の選択がもたらした結果がこの世界なのです


私達は戦わなくてはなりません
これ以上戦わないために
再び安寧とは無縁の日々を生きることになろうとも
彼が私達に望んだ人生ではではありませんが
彼が望もうと望むまいと私達には託されました
残された猶予をどう生きるか
この巨人のいない世界を
(※強調筆者)

『「進撃の巨人」The Final Season完結編(後編)』part4


この変更でまず目につくのは、《アニメ完結編(後編)》の、「私達の選択のもたらした結果がこの世界」という部分でしょう。ここは明らかに、アニメオリジナルの【「道」の会話】に対応して追加されている文章でしょう。

しかし他にも、細かい部分での変化があったり、言葉の意味が明確化しています。
例えば、エルディアと他国の戦争について、《漫画原作》では「エレンの言ったことは……」と(ヒストリアにだけか公にか)どこかで言った前提になっているのですが、《アニメ完結編(後編)》ではエレンがその未来を鮮明に「見た[*]」ことを、ヒストリアに伝えていることになっています。

これも「道」の会話と連動しています。アニメオリジナルで、エレンは「一方的な報復戦争にはならないだろうが……この争いは終わらない」(※太字部分アニメオリジナル)とアルミンに伝えています。アルミンについてもアニメオリジナルで「残された教訓は、殺すか殺されるか……」という台詞が追加されたことからも、少なくともエレン・アルミン・ヒストリアの中で争いのループに対する共通見解は持っており、また制作意図としても争いのループについてかなり強調したかったことが伺えます。

* エレンが死亡した時点でおそらく巨人の力や「道」は消失しているので、死後の未来を見ることは不可能だと思います。よって、これはエレンの予測や教訓めいた言葉だという理解で良いように思います。)


また「託す」という言葉の意味も、より明確になっています。
《漫画原作》では一文だけの簡単な言葉ですが、「それでも……託すことを選んだ」とあるように、「託す」の主語はエレンであり、エレンの選択=意図であったという言葉を用いています。これはおそらく、先述の通り《漫画原作》が「責任のバトンタッチ」構造にあること、そして【「道」の会話】(《漫画原作》版)の最後にエレンが「お前なら… 壁の向こう側へ行ける」と言うこととも繋がっていることでしょう。エレンは、自分では成し得ないであろう壁の向こう側=未来を仲間に「託している」。

一方《アニメ完結編(後編)》では「望もうと望むまいと」「託された」という言葉に変更されています。ここでは、「託された」の主語は「私達(ヒストリアたち)」と、中心がヒストリアたちにあります。
エレンの、仲間たちへの望みと言えば「長生きしてほしい」(27巻 第108話)とか「幸せに生きてほしい」(32巻 第130話・34巻 最終話)(或いは地ならしの理由の一つに「猶予を作ること」(26巻 第106話・34巻 最終話)があったことからも、「争いとは無縁に穏やかに寿命を全うしてほしい」という意図も読み取れる)であるために、(争いを回避しようと苦心する)「安寧とは無縁の」「戦い」に身を投じることは、エレンの直接的な望みとは言い難いでしょう。
加えて、《アニメ完結編(後編)》では、”未来”についてもエレンは「争いは終わらない」と悲観的な予測を立てているために、《漫画原作》とは違って「壁の向こう側」へは行けないとも考えているではずです。それ故におそらくエレンは、仲間になるべく争いとは無縁に生きてほしいという望みが強く、またエレンの望みをヒストリアが拒む気持ち――エレンの悲観的予測を打ち壊す存在として「望もうと望むまいと」という文章が追加されたのだと思います。
これについても実は【「道」の会話】との連動があります。序盤でアルミンは「残念だけど僕も皆も、君の思い通りに英雄を演じるつもりはないよ」と、エレンの望むままの生き方を拒もうとするアニメオリジナルの台詞が追加されています。加えて「壁の向こう側」という言葉についても、《漫画原作》ではエレンからアルミンに向けて発せられていたものでしたが、《アニメ完結編(後編)》ではアルミンの方から「ありがとう 僕に壁の向こう側を見せてくれて」と言葉にするという変更がありました。これもエレンが争いのループを予測していて「壁の向こう側」へは行けないと考えているためでしょう。だからこそ、エレンと同じ罪=責任を持つアルミンの方から言う必要があったのだと思います。


このように、エレンとアルミン、ヒストリアは《漫画原作》においても《アニメ完結編(後編)》においても、かなりの部分で呼応しあっていることが伺えます。これは私の個人的な意見ですが、エレンとヒストリアは作中でもかなり”特別”な関係だと思っているので、この呼応はかなり意識して行われたように思います。



これで、ひとまず《漫画原作》と《アニメ完結編(後編)》の比較を終えようと思います。

ここからは、今回の漫画原作と「アニメ完結編(後編)」の比較を通じて、『進撃の巨人』シリーズ全体を通して、私が抱いた感想を述べていこうと思います。





何を信じるのか――『進撃の巨人』のテーマとは


これまで《漫画原作》と《アニメ完結編(後編)》を比較し、それぞれ描くテーマが異なっていることを述べてきましたが、テーマの違いというのは、少なくとも『進撃の巨人』という作品に限っては、単に原作と翻案(オリジナル展開)という違いにとどまらないと思います。今回のアニメを機にもっと根本的に、『進撃の巨人』という作品自体に、そうした違いを生む余地がすでに潜んでいたのではないかと私は思い至りました。
素直な言い方をするならば、『進撃の巨人』を貫き続けている「唯一つのテーマ」というものは存在しない、ということです。

この文章をそのまま読むと、少々乱暴で批判めいた言い方に聞こえるかもしれません。(しかし実際、批判の意図が一切含まれていないかというと嘘になるでしょう。)ですが今回は、そういう作品批判を中心に展開することはありません。むしろ「唯一つのテーマ」が存在しないことが、『進撃の巨人』の広がりであるということを本章では主張したいと考えています。

また拙稿の〈自由の奴隷〉noteを例に出して恐縮ですが、記事内ではケニーの「何かの奴隷だった」という言葉の「奴隷」と、エレンが言う場合の「奴隷」(家畜)は一致しないということを主張しました――それ故に、〈自由の奴隷〉という言葉は成立しないのである、と。
そして時は過ぎ《アニメ完結編(後編)》が公開されましたが、結局〈自由の奴隷〉という言葉については殆ど語られなかったよう思います。これは、《アニメ完結編(後編)》では(《漫画原作》における)エレン的な意味での「自由」が殆ど描かれていなかったことに起因すると思います。エレンの「自由」が語られていないのだから、当然エレンが「自由の奴隷」かどうかを決めることはできません。
というよりそもそも、まずいつアルミンは「自由の奴隷」と口にしたのか(「君のどこが自由なのか」(33巻 134話・アニメ完結編(前編)part4だと推測できますが、それもまた、「自由」と「奴隷」を一言に同居させる理由には足りないように思います)、仮に言っていたとしてどの部分が「アルミンの言った通り」なのか、どうして〈自由の奴隷〉という言葉が、あえてエレンの口からはじめて出てくるのか。それらのことについて、少なくとも登場人物からはそれがわかる台詞は登場しなかったし、示唆する演出も見つけられませんでした。私は《アニメ完結編(後編)》を視聴してさえ、『進撃の巨人』をまとめる言葉として「エレンは自由の奴隷だった」と言うのは端的に間違いなのではないかと考えています。

しかし《アニメ完結編(後編)》は一方で、地ならしの道徳的意味――虐殺という大罪の責任を、どのように引き受けるか?もしくは、争いを避けるためにはどうすればよいのか?――について、《漫画原作》以上の焦点を当てることに成功していたように思います。


このズレについては、(少なくとも『進撃の巨人』のテーマに対してエレンとアルミンらが一定の繋がりを持とうとする限り、)仕方のないことであるように思います。あるテーマを取り上げようとすること自体が、他のテーマを取り上げないこととほとんど同じ意味を持つのだと思います。
そして『進撃の巨人』については、テーマを表そうとするたくさんの台詞が存在して、それをすべて同居させることもまたとても難しいのだと考えています。

『進撃の巨人』という作品は、いわゆる名台詞というものが非常に多く存在します。それもとりわけ、含蓄のある言葉としての名台詞が鑑賞者に印象深く残っていることだと思います。
例えば、「世界は残酷で美しい」(2巻 第7話)、「オレたちは皆生まれた時から(特別で)自由だ」(4巻 第14話・18巻 第73話)、「何も捨てることができない人には何も変えることができない」、(7巻 第27話)「みんな何かの奴隷だった」(17巻 第69話)、「お前が始めた物語だろ」(22巻 第88話)、「森から出るんだ」(28巻 第111話・31巻 第124話)など、この他にも様々な名台詞が登場すると思います。
それら名台詞は、現実にも物語世界にも当てはまることの多い、広がり持つ言葉ばかりであると思います。

しかし、さきほどのケニーとエレンの「奴隷」の違いでも説明しましたが、一つの台詞が、すべての登場人物に共有されていて、また作品をずっと貫いているということは言い難いでしょう。一番わかりやすいところで言うと、「世界は残酷で美しい」は終盤ほとんど語られることはありませんし、「森から出るんだ」は、《漫画原作》におけるエレンの信条とは異なると思います[*]
* 一応、前者については争い=「残酷」と、ミカサとユミルの愛=「美しい」で結びつけたり、後者については「壁の向こう側へ行ける」が「森から出るんだ」に対応していると捉えることもできるかもしれません。)

加えて、アルミンがエレンを殺すことを決めたときには「何も捨てることができない人には何も変えることができない」という言葉が再登場するわけですが、むしろ対話的だった(エレンをすぐ殺さず示威行為としての地ならしにも消極的で、最後まで対話の道を模索しようとし続けた)アルミンは、むしろ「捨てることができなかった」のではないのかという批判は、一考の余地があるように思います。(とはいえ、あの言葉は自分を鼓舞するおまじない的な意味が大きいと思われます。)少なくとも、前半で登場した「何も捨てることが……」という言葉が、後期アルミンの文脈にはそぐわないということは言えるように思います。
広がりを持つ台詞たちは、しかし必ずしも全ての場合に当てはめることができるとは限らないということに目を向ける必要があると思います。


とりわけ本稿では全体を通して、「地ならし」の捉え方について、”行為”と”結果”の見方の違いからエレン的な「自由」と道徳的な善悪の問題は、互いに『進撃の巨人』の別側面であり、それ故に同時に語ることができないというようなことを述べてきたつもりです。
もしエレンという存在の本質を「オレ達は生まれた時から自由だ」とするならば、今回のような「ありふれたバカ」をその文脈上で受け取ることはできないでしょうし、もしエレンが「ありふれたバカ」ならば、「オレ達は生まれたときから自由だ」に無批判であることは難しいでしょう。

しかし、これは現実の人生に置き換えるならば、当たり前のことだと言えるかもしれません。人が生涯ずっと一つのテーマや信念を抱えて生きることはありません。成長や老化に従って、人は様々に考えを変化させていくし、また自分の生き方がすべて無矛盾であると自負する人はほとんどいないでしょう。そこに、『進撃の巨人』のリアリティの一端があると考えることもできるかもしれません。
しかしそれとは逆に、フィクションであればこそ、一つのテーマだけを切実に抱えることがはじめて可能になるという主張もあり得ることでしょう。(私はむしろ、その立場に積極的に立っています。)だとしても、『進撃の巨人』には力のあるテーマが複数存在して、私達は複数の選択肢からそれを選び取ることができる。何を信じるか、決めることができる。

「唯一つのテーマ」はないけれど、「力強く切実なテーマ」が複数存在する広がりを、『進撃の巨人』は備えている。
こういうこともまた、言えるのではないでしょうか。

だからこそ、もし「『進撃の巨人』とは?」というような、作品のテーマを一つに決めようとする問いに対しては、慎重でなくてはならないし、もし問いに答えようとするならば、私達はテーマを選び取っていることに自覚的でなくてはいけないように思います。私達は数多くあるテーマや台詞の中から、何を信じるのかを決めなくてはならない。そして信じたからには、そのことに誠実でなくてはならない。
その意味で、肯定や批判、すべての見解には(誠実である限りの)価値があると思っています。
このことは、『進撃の巨人』の登場人物たちがそれぞれに信じたものがあることと、どこか重なるのかもしれません。

《アニメ完結編(後編)》では、『進撃の巨人』における主題を、「エレンも普通の人」「誰もが心に悪魔がいる」「森から抜け出す」というような描写・台詞を中心に組み立て、大きな一つのテーマを描こうとしたのだと思います。アニメ制作者たちは、『進撃の巨人』から、それらのテーマ・台詞を信じたのだと思います。


私は、《漫画原作》における「自由」の問題こそが『進撃の巨人』の最大のテーマだと信じています。


皆様は、何を選択し、何を信じるのでしょうか。



ここまでお読みいただきありがとうございました。
感想・意見・批判、すべての反応を心からお待ちしております。


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