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エレンは〈自由の奴隷〉ではないという話。

以下、漫画原作の最終話ネタバレがあります。そのことを了承の上、お読みください。



はじめまして。ガム999です。

つい先日、TVアニメ「進撃の巨人」The Final Season完結編(後編)の、PV第2弾が公開されました。


そのPV冒頭では、エレンによる衝撃の一言が発せられました。

エレン「アルミン。お前が言った通り、オレは、自由の奴隷だ

ぽにきゃん-Anime PONY CANYON -
TVアニメ「進撃の巨人」The Final Season完結編(後編)PV第2弾


この一言は、原作にはないアニメオリジナルの発言として、PV公開と同時にX(旧Twitter)でも大変話題にのぼりました。
私はほんの少ししか「自由の奴隷」にまつわる反応を見ていませんが、どうやらこの発言に対し、深くうなずく人もいれば、一方、唐突なアニメオリジナルということで戸惑う人も一定数いたようです。(特に漫画原作を読了し、結末を知っている人の一部がこの発言に違和感を持っている、らしいです。観測しているわけではないので定かではありませんが。)

この「自由の奴隷」という言葉は、本編に登場することはありませんが、実は『進撃の巨人』の感想では非常に目にする言葉です。今回アニメオリジナルで追加された「自由の奴隷」発言は、むしろ読者/視聴者からの逆輸入されたものでしょう。

実は以前から、私はこの〈自由の奴隷〉概念に非常に批判的な意見を持つ鑑賞者の一人でした。


私の主張は一貫してこうです――エレン・イェーガーは〈自由の奴隷〉ではない。

私は書くことが大変苦手なので、本当はその「否定的な人」のうち誰かにこの批判をおまかせしたかったのですが、少なくともこれまでこのような評価をまとまった文章で行っている人を一人も見ていないので、私が頑張ってこの主張を世の中に開きたいと考えています。(海外サイトには、もしかしたらあるかもしれないです。)

では、よろしくお願いします。



前提――〈自由の奴隷〉ミームについて


批判に入る前に、まずは、〈自由の奴隷〉という言葉(理論)が、どのように成り立ち、またどのように用いられているかを軽くおさらいしましょう。

「自由」については、言うまでもなく、『進撃の巨人』の、そしてエレン・イェーガーの思想の主題です。エレンはアルミン・アルレルトに外の世界のことを聞いたときから、最終的に地ならしを選択、そして死を迎えるまで「自由」を追い求める存在でした。このことは、ここまで作品を鑑賞している人には不要の説明でしょう。

次に、「奴隷」という言葉ですが、これはエレンがよく用いる「家畜」や「奴隷」という言葉――自由を追い求める者とは真逆の、不自由であったり、不自由であることを肯定するような者を揶揄する言葉としての「奴隷」――というわけではなく、ケニー・アッカーマンがその命の最期にこぼした「みんな……何かの奴隷だった……」から流用されていると考えられるでしょう。


ケニーの言葉(諫山創『進撃の巨人』17巻 第69話, 講談社, 2015年)

「みんな何かに酔っ払ってねぇと やってられなかったんだな…
みんな…何かの奴隷だった… あいつでさえも…」
(※強調筆者)

(諫山創『進撃の巨人』17巻 第69話, 講談社, 2015年)


ここでケニーが言おうとしていることは、「すべての人は、ただそのままに〈生きる〉ことなどできず、何かを拠り所にしなければ生きていけない」。それを少し露悪的に言い直すと「酔っ払ってないとやってられない」や、「何かの奴隷」となるのでしょう。

この「何かの奴隷」の「何か」の部分に、作品の主題でありエレンが求め続けている「自由」という言葉を入れると、〈自由の奴隷〉の完成です。

この表現は、非常にキャッチーだと思います。作品の中でもそのテーマが色濃く出る「何かの奴隷」という言葉は、人間の奥底の弱さ頼りなさとを捉える普遍性のある言葉だと思いますし、そこに、エレンの最も嫌う表現である「奴隷」を結びつけて、自由を求め続けるエレンの猪突猛進さを(からかいも含みながら)うまく一言に表しており、まあ確かにこの言葉でいろんなことを含ませられるな、と思います。実際、私もエレンは「自由」好きすぎだと思いますし。

ただ、あまりにも広がりの大きい表現で、感想として何を言おうとしているのか煩雑になりますから、あまり好みの表現とは言い難いです。それに私としては、この言葉が『進撃の巨人』という作品の主題を捉えていないようにも思うので、いっそ嫌いと言いきっても良いでしょう。

後々重要になることをここで先に述べておくと、ケニーの論理はあくまでケニーの論理です。もちろん登場人物全員がケニーのこの発言に同意しているわけでもなければ、リヴァイ以外はこの発言のことさえ知りません。
これも後に詳細に説明しますが、このケニーの考える「奴隷」と、エレンがよく発言する「奴隷」とでは、意味合いが微妙に異なります。ケニーは拠り所に縛られ〈ざるを得ない〉という意味での「奴隷」であって、エレンの「奴隷」は、主に現状や行為を何かのせいにしてしまう心性(意識)を指して使われています。
重なるところもありますが、ケニーとエレンとでは、考え方が異なるので、当然この言葉の使われ方も異なります。この点にはとても留意する必要があるでしょう。

〈自由の奴隷〉もまさに、こういった言葉の(不必要な)曖昧さをよく考慮せず使われていると思います。鑑賞者が何気なく使う言葉としてもあまり適切だとは思いません。さらに批判したいこととして、〈自由の奴隷〉という言葉をエレンが発するということが、今までのエレンの思想と比べあまりに浮いて見えるのではないか、ということです。


繰り返し述べてきたことですが、改めて。私の主張(批判)は、およそ2つに大別されますが、その概要を示しておきます。

  1. エレン・イェーガーは〈自由の奴隷〉ではない

  2. エレン・イェーガーが自身を「自由の奴隷だ」と言うのはおかしい


しかし【2.】の主張については、ほとんど【1.】の主張に内包され、かつ私の願望を含んだものですので、反論への再反論という形を取る程度になるかと思いますが、一応私は「エレンが言うのはおかしい」まで踏み込んで主張したいため、予め提示しておこうかと思います。

それでは、これらの批判について、丁寧に説明していきたいと思います。


批判1――〈自由〉と〈奴隷〉の排反


では、〈自由の奴隷〉という言葉の解体から始めたいと思います。

「自由」分析――構造的「自由」と局所的「自由」


まずは、『進撃の巨人』における「自由」という言葉を、より詳しく検討することにしましょう。

この作品を通底する大切な「自由」という概念ですが、実はエレンの中でも、「自由」に対する考え方(捉え方)は相当変化しているように思います。それはエレンの精神的成熟によるところもあるでしょうが、なにより解明される情報、知識が、エレンをそうさせざるを得ない、そういった印象を強く受けます。

順を追って変化の過程を見ていきましょう。

  • 幼少期エレン(エレン誕生~ウォール・マリア破壊)

このころのエレンは、かなり素朴な「自由」を観念していたと思います。いわゆる完全純粋な「自由」――何者にも囚われず、鳥のように思うがままに大空を羽ばくさまこそ「自由」だと考えていたのではないでしょうか。

自由という概念について、アイザイア・バーリンという人が提唱した「消極的自由」と「積極的自由」という考え方があります。簡潔に言うと、消極的自由は干渉や強制を受けない「~からの自由」を指し、反対に積極的自由は、何かへ自律的に関わる「~への自由」となります。例えば、国家に制限されず自由な宗教を選べることは「国家からの自由=消極的自由」で、国家に格差を是正してもらうことでその人の望む教育や就職の機会を与えやすくする「教育/就職への自由=積極的自由」ということです。
私もこの両概念について完全な理解をしているわけではありませんが、消極的自由と積極的自由の考え方は、少なからず『進撃の巨人』における「自由」に組み込まれているように思います。特にエレンの自由の考え方の変遷は、消極的自由から積極的自由へ向かう過程とパラレル(似たような動き)であるように思われます。

このときはまだ世界の真実を知る由もないので、エレンにとって世界は壁の中と外の2つに分かたれていて、壁と巨人は自分に干渉、抑圧する敵であり、彼らに「外」という自由を奪われている。敵を駆逐すれば自由になれる。エレンはそうした「敵」からの自由を求めている。構図としては、素朴で単純だと思います。

先程エレンの「自由」に対する考え方は変化していくと言いましたが、とはいえ、エレンにとって自由とは一貫して「取り返すもの」であることは間違いありません。エレンが自由を想うとき、それはいつも「奪われるもの/奪われているもの」で、エレンは本来あるべき自由を「取り返す」ために戦っています。

奪われることで気づく自由(諫山創『進撃の巨人』18巻 第73話, 講談社, 2015年)

「何でか知らねぇけど 俺は自由を取り返すためなら
…そう 力が湧いてくるんだ」

(諫山創『進撃の巨人』18巻 第73話, 講談社, 2015年)

だからエレンは、アルミンの外の話そのものに関心があるわけではなく、「炎の水で氷の大地でもなんでもいい」のであり(4巻14話)、アルミンの目を見て自由を感じ取るのであり(18巻73話)、念願の海を見てもその先にある敵と自由を結びつけ(22巻90話)、最終的には「全て消し去ってしまいたかった」と地ならしという選択を望みます(33巻131話)。エレンの本当に望む自由とは、消極的自由(~からの自由)側に偏っていることはある程度一貫していています。だからミカサやエレン自身が言うように、エレンは「何も変わっていない」というのは、一定正しいと考えます。

  • 少年期エレン(訓練兵団入団~ウォール・マリア奪還)

このあたりのエレンも、自由に対する考え方に大きな変化はないでしょう。強いて取り上げるならエレンの自己評価が少しずつ変わってきていることでしょうか。顕著なのはキース教官の元へグリシャのことを聞きに行ったシーンです(18巻71話)。これまで死に急ぎ野郎で向こう見ずだったエレンは、戦いを経て自分の選択や能力不足を悔いることが増えてきた中で、自分が「普通」であることを肯定する一幕です。自由論と直接に結びつくわけではありませんが、カルラの「この世界に生まれてきてくれたんだから」は、後のエレンの壁外人類を見る目に影響している、と考えることもできるかもしれません。エレンが「海の外も壁の中も同じ」(25巻100話)と考えるに至る一助になった、と考えても良いように思われます。

  • 青年期エレン(ヒストリア接触=結末観測~死亡)

いよいよ『進撃の巨人』の世界が解明されるにあたって、やはり素朴な自由論は打ち砕かれていきます。作品における「道」や「座標」、もしくは始祖の巨人の能力は、あからさまな自由論へのトラップとなっています。

まず最大の障壁は、『進撃の巨人』で最も物議を醸す議題の一つである、あの台詞でしょう。

「同時に存在する」(諫山創『進撃の巨人』34巻 最終話, 講談社, 2021年)

「始祖の力がもたらす影響には過去も未来も無い…同時に存在する
だから… 仕方無かったんだよ…」
(※強調筆者)

(諫山創『進撃の巨人』34巻 最終話, 講談社, 2021年)

(この直後に、ダイナ巨人をカルラの元へ向かわせたことを示唆する描写があることが大きな論点の一つですが、本章で語りたいこととは離れるため、ここでは一旦棚上げにします)

この設定については、「自由」にまつわる考え方の中で、「決定論」という考え方を念頭に置いているものだと思われます。

「決定論」とは、文字通り、すべての結果が予め決まっていることを主張する立場のことです。すごく大雑把に言えば、ある結果Aがあり、結果Aは必然的に結果Bを生み、結果Bは必然的に結果Cを……といった感じですね。この決定論にも「柔らかい決定論」とか「硬い決定論」とか色々あるみたいですが、私もすべてを知りえるわけでもないですし、ここでは一旦脇においておきます。ひとまず、「未来はすべて予め決まっている」と考えてもらえればOKです。
なぜここで「決定論」という立場を持ち出すのかというと、「決定論」はしばしば「自由の否定」を取る立場であるからです。特に「自由意志」――一切の外的な影響を受けないまま、行為を選択することのできる意志能力――を否定する立場として登場することがあります。

実際、進撃の巨人でも(多分)一度、「自由意思」という単語がエレンの口から出ます。

「自由意思が選択したもの」(諫山創『進撃の巨人』28巻 第112話, 講談社, 2019年)

(このとき、漢字表記が「意志」ではなく「意思」であることは、哲学的な解釈をするときには、とても重要なことであるように思われます。実際、他の場面では概ね「意志」と表記されますし、エレン自身の台詞で「意志」と表記されることもあります(cf: 24巻97話、エレンとファルコの対話)。私の考えでは、決定論世界を知ったエレンにとって純粋な「自由意志」は想定不可能なこと、そしてこの場面でミカサやアルミンを傷つけるエレンに自信(後に語る〈追肯定〉)が少し欠如していることなどから、意図的に異なる表記を用いているのだと思います。しかし前部分に「何をしようと 何を選ぼうと」という言葉が挟まれていること、また、「自由意思」という熟語をここで初めて登場させていることから、「決定論」的な議論への目配せを強く感じました。)

厳密な決定論において、当然ながら「自由意志」というものは欠片も想定されません。なぜなら結果A→結果B→結果Cと、すべての結果が必然的に結びついているため、新たな可能性を選び取る余地――「自由」が入る余地がないのです。決定論では、構造的に「自由」や「自由意志」は存在し得ません。
『進撃の巨人』世界は、まさに完全な決定論世界と言うことができるでしょう。少なくとも観測者のエレンは、未来は変わらない――というより、未来というものさえなく、ただ揺るがない結末(結末)が一つ存在して、その結果によって既に全ての結果(過去・現在・未来)が決まっている――ことを知っています。

とはいえ、エレンもすぐにそのことを受け入れたわけではありません。
ヒストリアと接触したすぐあとのエレンは、海を見たときも「自由になれるのか?」とまだ海の向こうの敵へ地ならしを向かわせることを少し躊躇しているようですし(22巻90話)、「あらゆる選択肢を模索するのが我々の取るべき最善策」(27巻107話)と、少なくとも決まった結末へ一目散に進んでいきたいようには見えません。

しかし結局最善の選択肢が見つかることはなく、地ならしの選択肢を視野に入れ始め(26巻106話)、そして最後はマーレに潜入したことを機に、あの結末へと進み続ける決意をすることになります(31巻123話)。

「時間を稼ぐ」=まだ回避方法を模索(諫山創『進撃の巨人』26巻 第106話, 講談社, 2018年)

エレンが結末を知って失踪するまでの期間は、これまでの「自由」の戦いとは少し次元の違う、かなり根本的な意味での「自由」の戦いです。もはや完全純粋な「自由」というものを思い描くレベルではなく、そもそも「自由」というものが存在するかどうか、という瀬戸際の葛藤が行われています。「自由」と仲間の幸せと自分の行う未来の過ちとの葛藤が、エレンにとってどれほど酷であったかは、ハンジを柵越しに掴み怒鳴るエレンの姿が示しているでしょう。(27巻107話)

そしてついに、エレンの無垢な自由は完全に打ち砕かれます。エレンは自分の見た結末以外選択肢が残されていないこと、そして、その結末を自分が望んだことを確信します。それ故、マーレ潜入後にその行方をくらませました。

ここでついに、エレンの自由論の集大成が登場します。
それが以下のセリフです。

〈結果の追肯定による意志〉(諫山創『進撃の巨人』24巻 第97話, 講談社, 2017年)

「でも…皆「何か」に背中を押されて 地獄に足を突っ込むんだ
大抵その「何か」は、自分の意志じゃない 他人や環境に強制されて仕方なくだ
ただし 自分で自分の背中を押した奴の見る地獄は別だ
その地獄の先にある何かを見ている それは希望かもしれないし さらなる地獄かもしれない
それはわからない 進み続けた者にしか……わからない」
(※強調筆者)

(諫山創『進撃の巨人』24巻 97話, 講談社, 2017年)

エレンが起こした地ならしについて、一定仕方のないところがあるのは誰しも理解するところでしょう。実際に、他人や環境にそう仕向けられている部分はあるし、何より、始祖の巨人の力によってそうなることが「決まっている」のだから、エレンはすべて必然の下を歩いていると言えます。繰り返しになりますが、世界自体に、構造的に「自由」が存在していないのです。

ではエレンは「自由」を失ったのか?違います。エレンは「自由」を取り戻します。

世界に「自由」がないことを知った上で、目の前の「結果」を「意志によるもの」と呼ぶ、ということが、エレンの自由論の核です。

結果を起こしたこの行為を「意志」と呼ぶ限り、自分は「自由」であることを認められる。なぜなら「意志」できているのだから。そして自分が「自由」であるがゆえにこの結果を「望み」、「選択」することができます。
この構造を、私は〈結果の追肯定による意志〉と名付けています。
起きた結果を、「自分が望んだこと」だと追肯定することによって「意志」を見つけ出し、意志があることで必然的に「自由」であらざるを得ないのです。
大切なことは、「自由」で「あらざるを得ない」、というところです。
(サルトルの「自由の刑に処されている」などを勝手に思い起こしましたが、それと同じ解釈なのか定かではありません。もしかしたら既に誰かの哲学者が発明してることの劣化になっているかもしれません。その場合は私に発明者を教えてください。)

この〈結果の追肯定による意志〉が最も端的に説明されているシーンが、以下のエレンの回想になります。

すべては望んだこと(諫山創『進撃の巨人』32巻 第130話, 講談社, 2020年)

どこからが始まりだろう
あそこか? いや… どこでもいい
すべてが最初から決まっていたとしても
すべてはオレが望んだこと
すべては… この先にある

(諫山創『進撃の巨人』32巻 第130話, 講談社, 2020年)


青年期エレンが到達した自由論は、決定論的世界の構造的不自由さを前提とし、それを一つ乗り越えた「先」に本質があります。
後述しますが、これはケニーの「何かの奴隷」理論を一つ乗り越えていることにもなります。ケニーの「何かの奴隷」、拠り所なくして生きられない、拠り所に縛られる人間の不自由さを指摘するものですが、どちらも根本的に逃れられない「不自由」であるという点で共通します。エレンの「自分で自分の背中を押す」=〈結果の追肯定による意志〉は、そうした根本的不自由を乗り越えるための理論なのです。

物語にて度々登場する台詞「戦え」は、不自由であるしかないこの世界から、自由を取り返すための呪文である、と言うこともできるでしょう。

これはある意味で、消極的自由から積極的自由への遷移と取ることができるかもしれません。本当に純粋な意味での自由――つまり消極的自由「~からの自由」は原理的に不可能で、だからこそ、積極的自由「~への自由」へと転回する。「解放としての自由」ではなく「意志による自由」という、エレンの自由論の動きと重ねることができるかもしれません。


こうして〈結果の追肯定による意志〉により「自由」を作り出したエレンですが、地ならしの瞬間は、幼少と同じ無垢な自由論の立場に戻ります。
一度は「海の外も壁の中も同じ」(25巻100話)と認めながらも、改めて「敵」と「敵に奪われている自由」を取り戻す戦いに戻ります。最終的な結末のために進んでいるものの、地ならしの瞬間だけは、あの頃と同じ純粋な「自由」のための戦いをしていて、その時のエレンは子供として描かれます。

子供のころ夢見た「自由」(諫山創『進撃の巨人』33巻 第131話, 講談社, 2021年)

「全てを消し去ってしまいたかった」という言葉からも分かる通り、エレンの衝動が求める自由は、排他的です。この世のすべてが「敵」――ともすれば仲間さえも「敵」と言えるかもしれないこの瞬間は、本当に、エレンはありとあらゆる存在から解き放たれ、心の底から消極的自由「~からの自由」を感じることができていると言えるかもしれません。


こうして、エレン・イェーガーは、決定論的世界においては「構造的自由」を獲得し、局所的には「消極的自由」を感じ取ることができたという点で、やはり「自由」であった、ということになります。



「奴隷」分析――「仕方なさ」と「寄る辺」なさ


「自由」に関する説明がとても長くなりましたが、ここからは早いと思います。次は「奴隷」にまつわる分析です。

前提にて簡単に述べましたが、エレンの用いる「奴隷」という言葉と、ケニーが用いる「奴隷」という言葉は、あまり混同すべきではないでしょう。
改めて説明すると、エレンの「奴隷」は現状や行為を何かのせいにする、自律的でない気持ちやふるまいを指して「奴隷」もしくは「家畜」と呼びます。自分を、自分以外の何かが支配してしまうこと、そのことを許せないという思いから、これらの言葉は出ています。
一方ケニーは、人間は生きるにあたって持たざるを得ない「拠り所」に支えられ、そうしなければ生きられないという人間の脆さや頼りなさを指して「奴隷」と呼んでいます。これは人間が、人間であるがゆえの限界を表す言葉です。

大きく異なるのは、やはり視点の置きどころですね。ある物事について、おそらく両方の視点から説明することができます。

例えばAさん、という人がいるとしましょう。Aさんはあるコミックを読んで衝撃を受け、漫画家になりたいと思ったそうです。Aさんにとって絵が生きがいです。そのため毎日十数時間、絵の勉強や練習をしています。家族に止められては家を出て、友人に止められては縁を切り、ずっと絵の練習と勉強を続けています。

この状況を、エレンが見ると、自分の望むものになりふり構わず進むさまを見て、少なくとも「奴隷」とは言わないでしょう。一方ケニーは、間違いなく「酔っ払ってる」「奴隷」だと言いそうですね。

このことからわかるように、何かを強く求めている人は、求めているという一点において「奴隷」と言うことが可能、ということです。「奴隷」という言葉はかなり露悪的ではありますが、しかし構造はしっかりと捉えているので、間違っていると言うつもりはありません。しかしこれを言ってしまうとアルミンもミカサもジャンもコニーも奴隷と言う余地が生まれてしまい(それぞれ「対話の奴隷」「エレン/愛の奴隷」「骨の燃えカスの奴隷」「母親の奴隷」)、エレンを〈自由の奴隷〉と評する(からかう)ことの意味が、かなり薄いような気もします。それにケニーの「何かの奴隷」の奴隷という台詞の本当に重要な点は、人間の普遍的な弱さを言い表したところにあると思っているので、その点からも的を射ているとは言い難いです。
「自由」と「奴隷」という『進撃の巨人』において極めて重要な単語を2つも用いているのに、「自由バカ」程度の強度にしかなっていないのは、いかがなものかと、苦言を呈したいところです。


エレンの理論とケニーの理論があまり交わらないことは上記で示したとおりですが、しかしこういった反論も想定できるかもしれません。

『エレンはあまりにも「自由」という観念に囚われすぎている。自由であることを求めるあまり、不自由になってしまっている。
つまり、奴隷という単語をケニーの理論からではなく、自由を求めすぎるエレンの視野狭窄や肩身の狭さによる不自由を指して、〈自由の奴隷〉と言える。自由を求めすぎて、かえって不自由になるという逆説が、この矛盾する〈自由の奴隷〉という言葉で表現されているのである。』

確かに、かなりもっともらしい反論です。というより、これはアルミンがエレンにした問いかけと同じものと言えると思います。

「自由」にまつわる議論の一つ(諫山創『進撃の巨人』33巻 第134話, 講談社, 2021年)

「エレン…
もう一度質問させてくれ
『君のどこが自由なのか』って
そこから引きずり出した後…」

(諫山創『進撃の巨人』33巻 134話, 講談社, 2021年)


エレンの過剰さがアルミンの考える「自由」から離れている、ということは間違いなく言えるでしょう。そもそも、アルミンとエレンが本当に分かりあった瞬間の描写は、あまり見られないように思います。アルミンの「外の話」とエレンの「自由」はその最たる例ですが、その他にもアルミンの裏切り者に対する一種の非道さとエレンの仲間思いとのズレ(8巻31話、12巻49話)、海の外の人に対してポジティブなアルミンとネガティブなエレンなど(26巻106話)、実はアルミンとエレンの思考の一致というのは、あまり見られません。
よってここでも、互いの齟齬が起きていると考えられます。
アルミンが「自由」を語る場面はあまりないですが、少なくともアルミンにとって最も重要なものの一つが「対話」であることは疑いようがないと思います。特に暴力的な戦いに終始することを嫌い、身体的な危機が訪れないような手法によって互いの認識をすり合わせる――その結果、わかり合うことができるかもしれない――という信条を持っていることはよく見て取れます。
一方のエレンは、「戦う」ことが「自由」の核です。幼少期から青年期にかけ、常に戦うことで「自由」を取り戻そうとしてきました。特に青年期エレンはアルミンと対照的に、「わかりあえない」断絶を直観していたように思います。(26巻106話、33巻133話)

アルミンにとっては、更に良い選択がある(少なくともこのやり方はよくない)と考えているかもしれません。しかしこれまで述べたように、青年期エレンの自由論は、決定論を前提としており、「自由である」というよりは、「自由であらざるを得ない」という不可避的構造を中心に組み立てられています。その意味でアルミンやケニー、そして先程の反論は、一定の正しさを持つものの、しかし決定論の手前でとどまっており、その決定論の先に「自由」を見出したエレンの方が、より深い洞察と根本性を持っている、と言えるように思います。

奴隷〉であることを一旦認めた上で、それを乗り越えて〈自由〉を獲得する。それがエレンの最終的な「自由」に対する考え方だと私は思います。つまりエレンの自由論における「自由」と「奴隷」では、「自由」が上位概念であり、「奴隷」は下位概念だということになります。〈自由の奴隷〉という言葉は成立せず、エレンはただ〈自由〉だと言うことができるのです。

以上を以て、エレン・イェーガーは、〈自由の奴隷〉ではない、という主張を終えます。



批判2――エレンが口にすることの意味


これまでの説明で、エレンが〈自由の奴隷〉ではないことを十分説明できたかと思います。とはいえ、これはあくまでもエレンの「自由」に対する考え方にかなり偏ったものであることは認めています。(ただしエレン以上に「自由」に深く言及する人もいないので、エレンの考えをきちんと見ることはとても大切なことだと思いますが。)

ここからは、私の個人的な思いも多分に含まれながらの主張になるのですが、少なくともエレンに「オレは〈自由の奴隷〉だ」と言うことは、これまで積み上げてきたエレンの決意を大きく損なうように思います。


先程も述べたように、決定論世界の中では、「奴隷」であることは構造的に免れません。なぜなら、すべては決まっていること、だからです。エレンの意志は関係なく――或いは意志さえも定められて――向かう結末が決まっているのです。
またケニーに言わせれば、何かを追い求めることは、それに寄り掛かる/縛られることであって、アルミンに言わせれば、その自由はかえって不自由そうだ、といいます。

そんな中、エレンが〈自由の奴隷〉だと自ら言ってしまったら、一体誰がエレンの「自由」を守ることができるのでしょうか。エレンがあの袋小路の決定論的世界の中で、それでも自由でありたいと願い、地獄に自分の背中を押すことで自らの生(自由)を肯定できたのに、それを〈奴隷〉の所業だと自ら諦めてしまったら、一体今までの行いは何だったのでしょうか。

もちろん、この独白はアルミンに向けてのものですので、アニメでは、おそらく下記のシーンの際に流れるものだと思われます。

「仕方無かったんだよ」(諫山創『進撃の巨人』34巻 最終話, 講談社, 2021年)

「だから… 仕方無かったんだよ…」

(諫山創『進撃の巨人』34巻 最終話, 講談社, 2021年)


この「仕方無かったんだよ」もまた、あまり聞きたくない言葉ではありました。
「仕方無かった」は、エレンの用いる言葉としては、ほとんど「奴隷」と似た意味を持つものだと思います。だからおそらく、このシーンの代替として「自由の奴隷」が差し挟まれるのではないか、というのが私の第一予想です。

ただしかし、この「仕方無かった」は、少し文脈を持つ言葉です。すぐ後のページでにダイナ巨人に対してベルトルトを避けカルラの元へ向かわせたことを示唆するような描写があるので、「ダイナ巨人にカルラを食べさせたのは」「仕方無かった」ともギリギリ受け取ることが可能です。(とはいえ、そうであったとして、「奴隷」というニュアンスを含むことにあまり変わりありませんが。)

ただしかし、〈自由の奴隷〉は、それよりもなお悪いように思います。「仕方無かった」は、頭がめちゃくちゃになったエレンの弱音の部分としてかろうじて説明できますが、〈自由の奴隷〉は、エレンが「自由」というものを本当には信じることができなかった、自分の行為が結局「奴隷」に終始するものでしかなく、追い求めることが間違いだったと言っているようなものではないですか。

アルミンとエレンの対話の最後では、「他の道を探そう」と諭すアルミンに対して、エレンは「許されるわけがない」と自ら戒めますが、その理由として「どうしてもやりたかった」という、エレンの極めて重要な原初的欲求の吐露があります。それこそエレンが「奴隷」や「家畜」でなく「自由」であるためのとても大切な欲求であると思います。


その前段階で「自由の奴隷」発言があるかと思うと、それをあえてオリジナルで組み込んだことの意味を、疑わざるを得ません。私には、インターネットでよく使われているミームを、ただ語感の良さと説得力のそれっぽさから、深く考えずに採用したようにしか思えません。


PVの発言通りであれば、これはアルミンが「自由の奴隷」だと発言していることになります。これは後編中にそういったことをアルミンが言うのか、既にアルミンが言ったことを拡大解釈しているのか、どちらなのでしょうか。願わくば、前者であってほしいと思います。

「クソ野郎に屈した奴隷は…」(諫山創『進撃の巨人』28巻 112話, 講談社, 2019年)

「ミカサを傷つけることが君が求めた自由か…?
…どっちだよ クソ野郎に屈した奴隷は…」

(諫山創『進撃の巨人』28巻 112話, 講談社, 2019年)


これは相当クリティカルであるように思います。先述の通りエレンは自由であらざるを得ないので、傷つけるためにミカサやアルミンについた嘘も、傷つけたこととは何ら関係なく自由です。これはエレンの「意志」に基づく行為と言わざるを得ません。
一方でアルミンにとっては、エレンとは自由の捉え方が異なるので、エレンの自由が大切な仲間を悲しませていることを咎めます。実際エレンも不本意――望んだことであるが、できることなら悲しませたくはない――ではあるので、そのどうしようもなさを不自由さと捉えた点が、エレンに刺さったのでしょう。エレンの結果の追肯定が、十分に行われていない場面だと言えます。

とはいえ、このことを以て〈自由の奴隷〉と言うことは、やはり不可能でしょう。アルミンはエレンの「自由」そのものに疑い(批判)を行っているのであって、「自由」に縛られていると言っているわけではありません。「あなたは自由ではない、奴隷だ」と、そういう主張を(少なくともこの場面において)アルミンは述べています。このとき、「自由」と「奴隷」は、同じ一文に同居できません。排反の構造にあります。
だから、アルミンが〈自由の奴隷〉と発言することにも、やや違和感を拭えないということが私の主張の一つでもあります。しかしエレンよりは〈自由の奴隷〉という言葉を成立させるための思想を持ち合わせているので、なにかオリジナルで、十分に補ってほしいところです。



さて、最後に、改めて私の主張の要点をおさらいしましょう。

  1. エレン・イェーガーの自由論の本質は、『進撃の巨人』世界における決定論を前提とし、それ故に世界そのものと、そこに生きる人は根本的に避けられない「奴隷」的構造を抱えているが、その上で今起きている結果を肯定することによって意志を(擬似的に)成立させ「自由」を取り戻している――〈結果の追肯定による意志〉。そのとき、エレンは「自由であらざるを得ない」という構造を取り、「自由」と「奴隷」は一文に同居することはできない。

  2. 【1.】の批判を踏まえた上で、今回エレン・イェーガーに〈自由の奴隷〉という発言をさせることは、エレンの自由論の的を射ていないどころか、むしろ自ら「自由」を放棄してしまい「奴隷」へと(意識的に)転落しているように映るため、エレンの自由論とそれによる行為の価値をを大きく損なわせるものである。


以上で私の主張を終えます。ここまで読んでいただきありがとうございました。

以下、少しだけ私の主張を補うような余談を残しております。それも併せて読んでいただけると嬉しいです。



余談――アニメオリジナルと原作、原作者


(以下は、私がこの記事を書くに至った経緯や背景、なぜこのような意見を述べるのかという話を、「アニメオリジナル」や「原作」「原作者」という言葉への思いと交えて語っています。ほとんど言い訳めいた文章ではありますが、しかし私なりに大切なことを書いているつもりですので、よければ読んでみてください。)

こうして私はエレンが〈自由の奴隷〉ではないことを、できる限り言葉を尽くして説明してきたわけですが、このアニメオリジナルの台詞の是非について、X(旧Twitter)でこのような意見を見ました。

「アニメは、林祐一郎監督が『諫山先生(原作者)に毎回絵コンテをチェックしてもらっていて、アニメでの改変は諫山先生からの指示』と言っていたから、これは原作者の指示。原作者が言っているんだからこれが正しい

この意見について、一部私も同意します。私が同意できる点と、同意できない点を話していきたいと思います。

まず〈自由の奴隷〉発言が原作者からの指示、ということでしたが、私は根拠となる参照元を見つけることはできませんでした。ただ、その正誤はどちらでもよく、おそらくこれは本当のことなのだろうと勝手に納得しています。その上で、〈自由の奴隷〉発言は、実際正しいと思います。なぜなら事実、エレンは(アニメ『進撃の巨人』で)そう言ったのだから。

ただ「正しい」という言葉の意味を、きちんと考える必要があると思います。何が正しいのか。なぜ正しいのか。
私は、「原作者が正しい」ということに、強く反対します。私は、「作品が正しい」と主張します。

例を挙げてみましょう。ある漫画で、主人公が敵を一刀両断し、敵は苦しみ、やがて絶命した、と思われるような描写があったとします。後の展開でこの敵が登場することもなく、読者は「この敵はやられた」という認識の感想ばかりでした。しかし作者が後にインタビューでこう語ります。「敵は全く切られていません。無傷でした」。
このとき、読者はどう思うでしょうか?おそらく多くの人が、「切られていないはおかしい。そういう意図で描いてるじゃないか」と主張するでしょう。ここで「原作者がそう言っているんだから正しい」と言えば、少なくない人が「おかしい」とか「描き方が下手」とか、そういった旨の批判を行うと思います。

では、「正しさ」はどちらにあるのでしょうか?原作者にあるでしょうか?作品にあるでしょうか?私はこう言いたいと思います――原作者がその意図で描いたことは正しく、読者がそれとは異なる解釈をしたことは正しい――と。

私の持論ですが、作者と作品は切り離されていると思います。作者が意図したことが、実際に作品に反映されているとは限りません。また作品の描いたことを、読者が「正しく」受け取ることができているとも限りません。(更に突き詰めれば、作者がインタビューで言ったことが、必ずしも本当であるとも限りません。)私たちが言えることは、作者がそう描いた事実(作品)が存在すること、読者(私たち)がそう受け取ったということまでだと思います。
だからもし作者の言うことと読者の受け取り方が違うならば、あとは正当性の問題です。もし自分の解釈のほうが正当だと考えるならば、意見や感想、考察などによって、その正当性に納得させる必要があると思います。(正当性は、必ずしも他人に言わなければならないわけではありません。自分が自分の解釈の正当性に納得するならば、「自分に限り」正当だと言えます。その解釈を、もし他人にも納得してほしいならば、他人に納得させるような説明を行う必要があります)


そういうことで、私は、私の解釈したエレン・イエーガーと今回の発言から、私は私の解釈の方が正当だと思い、それを他人にも納得してほしいから、この記事を書いています。

私は、作者を鑑賞しているわけではありません。作品を鑑賞しています。だから漫画原作者の指示であっても、私は(漫画)『進撃の巨人』から受け取ったエレン・イェーガー像の方を、正当だと考えています。
私が「作品が正しい」と言うのは、こういった理由からです。


ところで、私はこの記事において、「原作者」「原作」という言葉を(自分の言葉として)用いず、「漫画原作」「漫画原作者」という単語を用いています。それは、漫画とアニメは、根本的には異なるもの=別作品であるという考えによるものです。
当たり前ですが、漫画とアニメは異なるメディアです。当然、表現の方法が異なります。漫画ならではの表現、アニメならではの表現。そして表現が異なれば、私たちはそこから受け取る印象も異なってきます。
多くの人が、翻案作品――アニメ化、コミカライズ、ノベライズ、舞台、実写など、ある作品を原作として別作品を作ること――について、「原作通り」であってほしいと願っています。より適切に言うならば、翻案作品を、その参照元の作品から私たちが受け取った印象と、あまり離れることがないように受け取りたい、と考えていると思います。私も、その一人です。
しかし、原作と翻案作品は、あくまで別作品ですから、必ずしも同じでなければならないわけではありません。というより、別作品ですから、同じであるはずがないのです。漫画とアニメという、異なるメディアであればなおさら。私たちが「原作通りであってほしい」というのは、あくまで私たちの願望でしかないのだと思います。
そういうことで、あくまで漫画は漫画、アニメはアニメという自省を込めて、私は今回、「漫画原作」「漫画原作者」と書くようにしています。

だから、アニメ『進撃の巨人』でエレンが〈自由の奴隷〉と発言したことを、私は漫画原作を参照しながら批判しましたが、アニメでも必ず漫画原作通りに解釈できなければいけないということは全くありません。

私が今回の記事を書いた理由は、アニメ『進撃の巨人』は漫画『進撃の巨人』の翻案作品であって、アニメはその大部分を漫画原作に準拠しているため、漫画原作において最も大切だったエレンの思想的根幹を損なうような今回の発言が、私の「漫画原作が素晴らしい」という思いから、あまり受容できるようなものではなかった、ということです。


長ったらしいようですが、私の批判意図を十分説明するためには、以上のようになりました。


しかし実際、アニメでエレンはそう言いました。その事実は動きません。ならば、アニメとしてのエレン・イエーガーを考える必要があります。今のところ、アニメと漫画はその内容をほとんど同じにしていますから、現状私の意見は覆すことはできませんが、願わくば、アニメにてその発言を納得させる説明があってほしいと心から思っています。アニメ『進撃の巨人』を早く観たいです。


以上になります。ここまで読んでいたただいて、ありがとうございました。意見、感想、お待ちしております。


(以下、アニメ視聴後の感想を追記しました。)



補遺――アニメ完結編(後編)を視聴して


さて、先日TVアニメ「進撃の巨人」The Final Season完結編(後編)が公開されました。
(以下、《アニメ完結編(後編)》と呼び、漫画『進撃の巨人』を《漫画原作》と呼びます。)

そこでは、予想以上にアニメオリジナルの展開がなされており、興味深く視聴しました。具体的な比較検討とシリーズ全体の感想について、個別の記事を投稿させていただいたので、よければそちらも併せてお読みいただけると大変嬉しく思います。


しかし実は、そちらの記事では〈自由の奴隷〉についての分析をほとんど行うことがありませんでした。というのも、《アニメ完結編(後編)》では、「自由の奴隷」という言葉は一言つぶやかれる限りで、あまり取っ掛かりというものを見つけることができなかったからです。私が受け取る限りにおいて、《アニメ完結編(後編)》は〈自由〉のテーマからは少し離れて、責任や罪、そして戦争というテーマの方に重きを置いたように映りました。

そのことはそのことで色々なことが考えられるために個別に記事を作成したのですが、しかし、私にとって一番と言っても良いくらいには切実な〈自由の奴隷〉問題については、記事が散漫になったり、ある一方向へ傾いてしまうという危惧から、あちらの記事内ではしっかりと取り挙げることを避けることにしました。


しかし、このまま何も語らずに終わってしまうのも少し寂しい気がすることと、《アニメ完結編(後編)》では《漫画原作》とは大きく異なる「自由」概念が登場したこともあり、そちらについて私がわかったことを本稿の方に書き残しておこうと思います。


《アニメ完結編(後編)》では、アニメオリジナルの展開においてエレンとアルミン(加えてヒストリアたち、或いは視聴者)の共犯関係が中心に描かれていたと思います。そして共犯=同罪は、ある意味においてエレン的な「意志」を無効化するものだと考えています。
本稿ではエレンの〈結果の追肯定による意志〉について説明しましたが、これはエレンの行動をすべて〈意志〉に還元する――言ってしまえば「エレンの行動はすべてエレンのせい」という構造、もしくは認知です。どんなに「何かのせい」のようであったとしても、そう思う限りにおいて、エレンは必ず「自由」であり、「意志」による”行為”が「結果」を生んでいる。そんな、ある種の開き直りとも言える構造・認知が、〈結果の追肯定による意志〉です。

だからこそ、エレンは”行為”という点に限れば、エレンただ一人の責任=罪だというのが、最もエレン的な「自由」のあり方だと考えられます。その責任=罪をエレンただ一人のものではなくする「共犯」はむしろ、エレン的な「自由」からは大きく離れるものだと考えています。
(より正確には、責任や罪という言葉も、”行為”という観点からは正確ではないと思います。責任 accountability/responsibility も罪 guilt も、より道徳的(倫理学的な)議論の上で議論される言葉であると考えています。より適切には、「行為主体であり結果の根本原因がエレン」という言葉が良いと思います。)

このような共犯=同罪の構造が成立しているのは、エレンのアニメオリジナルの台詞があってこそです。《アニメ完結編(後編)》でエレンは、地ならしを含む結末全体の理由をこのように述べました。

だが、サシャもハンジさんもオレのせいで死んで、フロッグたちと殺し合いまでさせることになった……。どうして、どうしてこうなったのか。やっとわかった。
バカだからだ。どこにでもいるありふれたバカが力を持っちまった。だからこんな結末を迎えることしかできなかった。そういうことだろう……。
(※強調筆者)

『「進撃の巨人」The Final Season完結編(後編)』part4 より


これは、16巻~18巻の「王政編」で描かれた、普通の存在としてのエレンに再度焦点を当てたのだと思います。この「ありふれた」や「バカ」という言葉が、物語世界内ではアルミンと共犯関係を結ぶ接点となり、物語世界外=『進撃の巨人』という物語を鑑賞する私達には共感や同情、或いは没入を誘う言葉として、主題が道徳的(=普遍的)な意味もたらすための役割を果たしているのだと考えられます。
(私個人の意見としては、「自分を「”優越的に”特別な存在」から「普通の存在」へと捉え直したエレンが、その上で自分も他の人たちと同じくらい「自由」であるべき「普通かつ特別な存在」である」という発明こそが後期エレンの核だと解釈していたのですが、普通の存在としてのエレンにフォーカスを当てることも、そのための段階が描かれている限りにおいてはとても説得的であるように思います。)

このように、《漫画原作》と《アニメ完結編(後編)》とでは描くテーマが大きく異なっているということは、まず言えるのではないかと思います。


ここまで説明してきた通り、《アニメ完結編(後編)》ではエレン的な「自由」が中心にはなかったと思いますが、一方で、追加された台詞の中には違った意味で「自由」にまつわる極めて重要なアルミンの台詞がありました。

誰も思わないだろうね。人類の2割を救った英雄だから。でも、エレンに外の本を見せていたの僕だ。誰もいない自由な世界を、エレンに想像させていたのは、僕だ。
(※強調筆者)

『「進撃の巨人」The Final Season完結編(後編)』part4 より


「どうしてもやりたかった」が最も象徴的ですが、原初的欲求としての「自由」や、その「自由」の到達点として虚構の「壁の外の世界」を夢見てきたのがエレンだと理解してきたつもりでしたが、アルミンの理解はそれとは大きく異なるようです。
この台詞について考えてみると、このように言い直せるのではないかと私は解釈しました。

「エレンの原初的欲求としての「自由」、もしくはその「自由」について壁の外の世界=「誰もいない自由な世界」をイメージさせた原因は僕(アルミン)が本を見せたことにある。エレンは「誰もいない自由な世界」を求めて地ならしを行ったのだから、エレンの根本的な欲望を形作った僕(アルミン)も同じ責任=罪を背負うことになる。」

これでは、エレンの原初的欲求そのものか、もしくは原初的欲求の具体化がアルミンによって引き起こされ、地ならしの根本原因はアルミンであることになります。それは直感的に変である気がします。
そこまでは言えないとして、アルミンのせいではなくとも、この仕方で地ならしの理由を遡っていくならば、「エレンが「自由」を求めるのはグリシャの影響であり、グリシャがエレンへ影響を与えたのは……」「アルミンが本を見せたのは、アルミンの祖父が本を持っていたからであり、アルミンの祖父が本を持っているのは……」と無限に遡ることができ、最後には純粋な因果の起点(俗に言う「神の一撃」)を求める必要があります

これはかなり厳密な「決定論」の論理であり、決定論にはいわゆる「意志」が存在しません。そして、この決定論の論理で責任を求めようとすると、すべての人の責任はゼロか百か、いずれにせよ極限で等しくなります。(すべての人のせいであり、また誰のせいでもない。)

これはある意味「すべての人の責任である」という《アニメ完結編(後編)》のテーマと重なる気もしますが、責任は基本的に因果の起点となるための意志/意思を前提に初めて成立するため、このようなアルミンの論理で「僕たちのせい」と言える「共犯」を導くことは、私にはできませんでした。
(《アニメ完結編(後編)》の【「道」の会話】では、「二人で罪を償う」とという言葉もあったことから、全ての人が償うのではなく、二人だけが特別に償うような「共犯」でなくてはならない。


しかしこのアルミン的な「自由」の文脈上であれば、〈自由の奴隷〉という言葉は組み立てることが”一応”可能です。アルミン的な論理=決定論的論理では、自由は存在せず、すべては厳密な因果によって成立しています。だから、その因果の上で生きることを「奴隷」と呼ぶならば、

〈「自由(という構築物でかつ有り得ないイメージ)の奴隷(因果に囚われる人)〉

という言い方も、”一応”できるかもしれません。
(ただし、これは本稿で繰り返し主張してきた通り、それを言い出したら、すべての物事・人物に対して〈〇〇の奴隷〉と言えてしまうのであり、批判的意味がほとんど薄れてしまうというと私は思っています。)


実際に(《アニメ完結編(後編)》の)アルミンがどのような理解を持っているかについては、私の読解ではまだ分からないところがありますが、私が考えた限りのことをまとめると、

《アニメ完結編(後編)》は《漫画原作》と比較して、〈自由〉が、エレン的な「自由」ではなく、とりわけアルミン的な「自由」へ比重が移っている

ということが、《アニメ完結編(後編)》を視聴して私が〈自由〉と〈自由の奴隷〉について考えたことでした。



これで補遺を終了します。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
感想・意見・批判、すべての反応を心からお待ちしております。




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