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思想系著作解題 院試対策

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事典類を主に用いて、各著作の要約文(500字前後)を羅列していきます。
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記事一覧

要約 シェーラー『宇宙における人間の地位』

〇ユクスキュルの環境世界 〇精神と衝迫の二元論と宇宙の生命序列 〇精神は対象化の能力として超越であり、ゆえに人格として存在しうる。 〇ニーチェ、ショーペンハウアーの議論 〇衝迫と精神の共同性  シェーラーはユクスキュルの「環境世界」の概念に刺激を受けて独自の哲学的人間学を構築した。環境世界とは、生物が各々独自にもっている目的手段連関である。ユクスキュルはこれによって生物の機械論的運動観と、また擬人的生命観の両者を排除しようとした。  シェーラーは環境世界と「世界」という二つ

要約 アリストテレス『ニコマコス倫理学』

〇目的手段連関の極地は幸福であり、それは善でもある。 〇善とは徳=アレテーに即して活動するエネルゲイア=現実態のことである。 〇徳は知的徳と倫理的徳(→エートス)に分かれ、両者の共同が行為を生む。 〇知的徳はさらにソフィアとフロネーシスに区分される。 〇個別具体的な状況において、エートスとフロネーシスの共同によって「善なる行為」が生まれる。 〇エートスが共同体に依存的である以上、善は友愛=フィリアに局限される。 〇ただしソフィアにおける「観想=テオリア」が第一の幸福だとされる

レヴィナス 『全体性と無限』

〇絶対的他性とロゴスとしての帝国主義的存在論 〇一般化としての統覚作用はそのまま自己同一性の権能である。 〇顔は現象しつつ、その裸出性において無限責任を要求する。 〇顔との対面において、人間は主体化し、そこに倫理が生起する。  全体性と無限―同と他との対比を通じて、絶対的他性の観念を構築し、倫理学を第一哲学として構想する著作。ヘーゲルの全体性、フッサールの志向性、ハイデガーの世界内存在が重ねられて、本来取り込むことのできないはずの他者が自己の存在論に分解されてしまう、この動

要約 ライプニッツ『モナドロジー』

・モナドは不可分の生命であり、表象と欲求をもつ。 ・モナドは重複しない ・モナドに窓はないが、予定調和の世界である。 ・最善説と共可能性 ・充足理由律/事実の真理と矛盾律/永遠の真理 ・個体の完足性は消極的な悪であるのみで、最善世界は維持されている。 〇ライプニッツはデカルトとスピノザの実体概念を批判して、モナドという実体概念を提起する。それは確かに単純かつ非物理的で不可分なものであるが、表象と欲求という能力をもち、生命的に活動する個々の存在だとされる。 〇表象とはモナドが宇

要約 マリオン『与えられることで』

〇贈与の3要素の還元 〇現象自体の「与え」という本質 〇概念に対する直観の過剰が与えの常態である。 〇純粋な贈与としての現象に応えることでのみ自己同一性をもった主体として存在できる。  贈与を、デリダやバタイユのように「交換のエコノミー」と断ずる前に、我々は贈与に現象学的還元を施すことが可能である。贈与は「与える人」「受け取る人」「贈り物」の3つの要素からなるが、いずれも還元可能である。「与える人」について、死後の臓器移植などは「与える人」の不在が逆に不可欠である。「受け取

要約 フォイエルバッハ『キリスト教の本質』

〇人間が必然的にかかわる対象は、人間自身の本質のみである。もっともすぐれた対象たる神も、そうした人間的本質を超越者に投射したにすぎない。 〇神の愛は人間的愛情、神の賢明さは人間的悟性、神の実在は人間の実在である。 〇神の観念に保持されている人間の類的本質を、キリスト教は超越的実在に投げ渡してしまう。 〇それら類的本質を今一度、具体的感性的人間に回復し、宗教の本質を内在としての人間に定位させるべきである。 〇類的本質の回復はそのまま類すなわち共同性の回復であり、ここに調和的な人

要約 フィヒテ『全知識学の基礎』

〇カントは自律という積極的自由を規定し、フィヒテはそれを本質への自由という存在概念として再規定した。 〇第一命題「自我は端的に自己自身を定立する」が事行を規定している。 〇第二命題「自我には非我が定立される」において、「見られる自我」という対象化の運動が理解される。 〇第三命題「自我は、自我において可分的に可分的非我を定立する」において、対象化における非我と自我の対立矛盾が部分的なものであることが理解される。 〇非我を「見られる自我」として理解していく事行の働きが世界の歴史で

要約 シェリング『人間的自由の本質』

〇実存(自己自身であろうとして自己を拡張しようとする力)と根底(自己自身であろうとして現在の自己にとどまろうとする力 〇両力の統一が人格を生む 〇最高度に統一された存在が人間であり、両力の分離可能性、すなわち善と悪への自由をもつ。 〇根底としての我意が発揮され、統合を失った自己が悪である。 〇無底は生命としての神の始発点であり終着点である。神は神に「なろう」とすることで神「である」  1801年に完成した同一哲学が汎神論であるという批判を受けてシェリングが新たな哲学へと移行

要約 ブーバー『我と汝』

〇第一部。二つの根源語、間性としての人間。 〇第二部。歴史的・国家的に「我―それ」関係が支配的である現状 〇第三部。「それ」へと向かう運命にある我が、永遠の汝とのペルソナ的関係を経ることで、調和的共同体が可能となる。  第一部では「我―汝」という根源語が「我―それ」と対比される。どちらにせよ、人間は他との関係に入る「間」性を本質としており、デカルト的な独立自存の理性的自我は存在しない。人は「汝」とともに愛の関係に入る可能性をもつが、この愛が感情として心理的所有物に変わると、

要約 フーコー『監獄の誕生』

→権力の形態(処罰(形式・対象)・監獄・懲罰・試験・人間科学・監視) 〇処罰―行為から個人へ 〇監獄―規律社会の成立、操作・管理対象としての身体の形成 〇懲罰―規律の内面化 〇試験―内面化のテスト 〇人間科学―規律化された身体についての知→真理概念と権力との癒着 〇監視―パノプティコン、社会的視線の内面化―規律の内面化 〇権力はその規範性が忘却され、自動的かつ匿名のシステムとして機能し続ける。  フーコーは本書において「真理」が偽なるものを排除する際の暴力を問題とする。真理

要約 ハンス・ヨナス 『アウシュヴィッツ以後の神』

〇ディアスポラと記憶の民の苦難 〇アウシュヴィッツによる神概念のトリレンマ 〇「苦しみ生成し気づかう神」への気遣い    ユダヤ教の民は幾度のディアスポラを経験しつつも、自ら選民として世界に正義を打ち立てるという義務感のもと、信仰―律法を保持してきた。そこで繰り返される苦難も、自らの信仰の試練であるとして、記憶の民としての意識を保ち続けてきたのである。しかし、アウシュヴィッツという端的な悪を通過し、神概念の再構築が求められる。理性的・システマティックに行われた暴力の記憶は、も

要約 シュライアマハー『宗教論』

〇有限な個別者の中に無限の宇宙を各自が直観するところに宗教の本質がある。 〇人間も、内的自然と外的自然に挟まれた自然―宇宙の一員である。 〇宇宙の一員であるという自覚が自由の意識を生む 〇宇宙の直観は、それを他者と分かち合うことによって意義をもつ。ここに宗教の公共性・社会性が開かれる。 〇実在直観の心を他者間、異宗教間で承認しあうことで人類の調和が達成される。 〇『キリスト教信仰』において、これは「絶対依属の感情」として語りなおされる。絶対者に依存しつつ、それに包摂されている

要約 富永仲基『出定後語』

〇仏教経典の相対化と学問的意図 〇加上とはテクストの歴史性と論争性である。 〇「三物五類」とは語義の多様化の過程の分類である。 〇「転」とは転義の説明である。 〇「国に俗あり」とは言説の受容に民俗的傾向性があるということである。  本書は仏教経典を歴史的言説として相対化する。ただし、仏教批判というよりは、言説の正統性の争奪戦という混迷した状況をどう客観的に判断するかという学問論的意図が強い。まずある言説には「加上」というフィルターをかける必要がある。ある言説は常に対抗的言

要約 ジェームズ『宗教的経験の諸相』

〇「健全な心」と「病める魂」 〇病める魂の方が悪の現実に触れる点で包括的である。 〇回心体験とは実在体験における自己統合のプロセスである。 〇回心は識閾下の潜在意識へと連続的につながる意識の場でなされる。 〇宗教体験と病的体験の区別は改善論に基づく行為と心情という実際的効果の有無で判別可能である(プラグマティズム)。  個人の生の経験における心理の動きの記述を出発点とする心理学的宗教学の書。宗教とは、「神的」といえるような強度における「実在」に触れる「人生に対する全体的反応