要約 マリオン『与えられることで』

〇贈与の3要素の還元
〇現象自体の「与え」という本質
〇概念に対する直観の過剰が与えの常態である。
〇純粋な贈与としての現象に応えることでのみ自己同一性をもった主体として存在できる。

 贈与を、デリダやバタイユのように「交換のエコノミー」と断ずる前に、我々は贈与に現象学的還元を施すことが可能である。贈与は「与える人」「受け取る人」「贈り物」の3つの要素からなるが、いずれも還元可能である。「与える人」について、死後の臓器移植などは「与える人」の不在が逆に不可欠である。「受け取る人」は、それが募金のような匿名性を持っている場合もある。「贈り物」も約束の場合のように、それ自身が霧消してしまうこともあり得る。以上から分かるのは、贈与に必要なのは、それを贈与だと感じる人間の意識―現象だということである。贈与はその意味で、優れて現象学の領野である。かつ、現象学において現象はいつもすでに「与えられている」もの、所与である。すなわち、贈与の還元によって贈与「は」現象であるといえ、また現象学の本質からして贈与「が」現象であるといえるのである。
 フッサールはこの現象を対象性に局限してしまった。またハイデガーも「出来事」の「性起」という形で、より高次なものを設定してしまう。両者ともに、「贈与」という動態そのものを捉えていない。現象が現象するとき、それは現象が自らを「与え」ているのだが、その贈与自体は認識のカテゴリーで捉えることのできない、所与の裏面である。贈与の現場は常に過剰であり、そこで私は単なる「受容者」である。例えば非現実的な事故を目の当たりにしたりもしくはキュビズムの絵画に触れたりしたとき、それは我々の概念―悟性に対して直観が過剰となっている。現象の与えはこうして時に過剰である。ただし、日常的な認識もその強度が低いだけで過剰な与えにさらされている。我々はそれを取り扱いやすいように概念化しストックしているのである。
 このような現象を前に、私は理性的判断者―世界の構成主体という地位から降ろされ、純粋な「受与者」へと向かう。現象の自己贈与において、私は「与え」の証人でしかない。受与者は贈与によって、主体としての自己同一性を獲得する。現象という呼びかけに対し、我々は「応える」。この応えによって私は私である。「私」とは本質的に絶対的な受動性である。

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