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回り回って一周して気がついた

ぼくら人間は「意味」を気にする。何をするにしても「これって意味あるの?」って、だいたい自分が気に食わないことの場合が多いかもしれないけれど。

個人的な結論としては全てのものに「意味はない」。そもそも初めからは意味が存在していなかったのだけれど、意味をぼくらホモ・サピエンスが作っていった。故に意味が今は存在している。しかもその意味は諸行無常の響ありで、気がつけば変化していくものだったりする。

今、この文章にある言葉の意味も、過去の蓄積で意味を与えられ、その意味が変化して今にいたった言葉たちだ。

ぼくらはこの言葉で自分を評価し、他人を評価する。気になる度合いは人それぞれかもしれないけれど、他人の評価が気になる人が多いと思う。ぼくらは他人と関わらずにはいられないからだ。たとえ無人島で暮らしていても、毎日ではなくても数年に一度か二度は関わるかもしれない。実際に直接関わっていなくても、現在78億5000万人以上のホモ・サピエンスの活動は、無人島で暮らしていてもなんらかの影響を与えるという意味で、関わりが0にはならない。0.000000000001くらいは残ると言って良いだろう。

無人島で現在一人暮らしをしている人がいるかはわからないけれど、ぼくらは他人と関わって、一緒に何か意味を作りたい生き物だ。それをどこかで諦めたと言う人もいるかもしれないけれど、何がしかで他人がそんな人の生活にも影響を与えているし、諦めた人の望んでいる結果にどこかで関わっているのだから、間接的に他人がぼくらの人生の意味を作る共同作業者になることからは逃れられない。これがぼくらホモ・サピエンスの社会なんだ。

ぼくらは科学的事実よりも、科学による検証結果によって示された可能性よりも、的外れであるかないか関係なく自分たちが信じている物語を信じる。信じた物語が事実に対して適切か不適切かは、たまたまなのかもしれない。

ぼくらが、自分が信じている物語を事実より重んじるのは、自分が他人との関わり合いの中で作り上げた物語だからだ。自分が作った家具とすでに作られた家具では、自分が作った家具に思い入れがあるってことはあると思う。自作したPCと既製品のPCなら自作したPCの方が愛着があるとも言える。スペックや利便性が既製品の方が優れていても、自作したPCの方を推したがる傾向をぼくらは持っている。これは事実ではなく、自作したPCは自分が作ったという自分の物語に組み込まれているからだ。

では、なぜぼくらは自分の物語に執着するのだろう?

他人との関わり合いで作られた物語を事実よりも信じたくなることがあるのだろう?

と考え続けていて、結論がでた。今の所の結論が。

みなさんもおそらく知っていると思うけれど、ぼくらは素粒子が集まってそれが関わり合った存在だ。二種類のクォークの組み合わせでできた陽子と、そして電子。中には中性子も入っている。この組み合わせぼくらはできている。いや、ぼくら目に見えるものや触れるもののほぼほぼ全てはこの組み合わせでつくらえている。

ビッグバンで宇宙が誕生し、エネルギーが急速に広がる中で、クォークたちが集まって陽子が生まれた。これはクォークというものが関わり合って陽子が生まれたとも言い換えられる。さらにその陽子が集まってヘリウムやらリチウムやらが電子と関わり合いながら生まれた。

そう、そもそもぼくらは素粒子レベルで関わり合いを持って存在しているのである。

公園や山にある木々や、田んぼ、アメンボなどの虫や、空を飛ぶ鳥、犬、猫、なんでもだけれど、関わり合って生きている。関わり合いの形はそれぞれだけれど、ぼくらは関わり合わなければ生きていけないのだ。

そんな中、ホモ・サピエンスだけが、物語を作り始めた。関わりから生まれる物語は意味を作り、ぼくらは自分の存在に意味をつけたくなったのだ。そしてこの意味は一人では作ることが難しく、そのために他人と関わりを持って意味を作って行かざるを得ないわけだ。

自分が大事にされていると感じることも含めて、ぼくらは意味を求めている。意味を誰かと一緒に作ることを求めている。まあ、どんな意味を含んだ物語を作りたいかは人それぞれだけど。

意識するしないにかかわらず意味をともに作るパートナーや共同者を求めるのがホモ・サピエンスとわかると、他人の良い点を探して持ち上げるとか、励ますとか、そう言うのがめっちゃ効いてくるんだな〜と悟った。

アドラーが述べた個人心理学は自立を求めていて、それはひとつの答えなんだけれど、万人の答えにならないのは、人はまずどうしても他人と関わらないと自分の存在意義を確認できないからなんだ。だからこそ、うまい話(話だけはうまいが実際は損する話)はなくならないし、他人と比較して自分は偉いと認められたい人もたくさんたくさんいる(実力は別)。それほどにぼくらは他人と関わり合って、自分の物語に意味づけをしたいのだ。それは、そもそもそういう仕組みでぼくらの肉体が作られているからだ。

この誰かと関わりたい。誰かと関わって自分の人生の意味をいっしょに作りたいという思いは、誰しも持っていて当たり前で、そこから逃れることは生きている限りは相当難しい。

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