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楽しいのはどっちだろう?

子どものころ正義の味方にあこがれたぼくは、いつしかバイキンマンや怪人側を応援しはじめていた。バイキンマンはいじらしいというか、素直じゃないところがなんか可愛いという理由なんだけど、怪人側の応援は特に戦隊モノになると5対1や6対1ーー当然怪人が1の方ーーとなんだかフェアじゃないって感じたのがきっかけだ。

ぼくらは大体の人が悪く思われるのが嫌だし、良く思われたい。だから事実がどうあれ自分が正しいと思って欲しがる。大体の人は正義の味方でありたいんだと思っている。悪いことをやっている自覚がある人だって、その悪を誰かに指摘されたら怒る。自覚があるかないかではなく、良く思われたい想いが強いから怒る。

自分が正しいと認めて欲しがるのは、人間の性や傾向なんだけど、正しいと認めてもらいたい想いが強すぎて自分の存在を「正義」に依存すると、めちゃくちゃしんどい。常に自分が正しいか悪いか? 相手が正しいか悪いかを考えるから。優先順位が自分の正義第一となると、自分のダメなところを認めなくなる。訂正するよりも言い訳をしたり、他人の所為にしたりする。他人の所為にするってことは、自分の人生すら他人の所為にしだす。それでは何も解決しないし、自分が前に進まなくなるし、周囲と軋轢を生み問題がより面倒臭くなる。結局、正義か悪かにこだわると事実をテキトーに扱い始め、課題がはっきりしなくなる。結局何も解決しないばかりか悪くなるだけなんだ。

あくまでも個人的意見だけど、良い悪いや善悪は結果でしかない。重要なのは事実であり、事実をできるだけ把握しないと課題は具体化しないし、具体化しない課題を解決することはまずできない。事実がわかれば課題がわかるし、課題がわかれば解決策が見つかるかもしれない。でも世の中には自分の正義を守る為、事実を見つめない人がいる。結局その人たちの課題設定はなんの解決も生まない。曖昧で間違った課題設定で、解決したケースは見たことがないから、そう言うのだけど。

先日職場で、自分が正しいことを認めて欲しいタイプの人とトラブルがあった。このタイプの人は正しさを認めてあげないと、ただただ怒り続けて酷ければ事実確認や課題設定もできず仲違いして終わる。特に自分が正しいことを認めて欲しいタイプの人同士の争いは、不毛だし時間の無駄。当然物事には筋ってものがあり、それを通すのが本来の姿だって誰でも思う。この筋が通らないから怒っているケースもあるけれど、結局怒るとどっちが正しくどっちが悪いかが争点になるから、課題がわからなくなってくる。勝ち負けや上下の問題に変わると、結局恨みしか買わないことの方が多いと思う。

人生はサッカーとすごく似ているとぼくは思っている。サッカーはその試合中、常にどうやってゴールを奪うか、ゴールを相手から守るかを考えて守ったり攻めたりするスポーツだ。でもボールは意図しない方向に転がっていくことも多く、その姿はまるで思い通りにいかない現実と重なる。それでも常に目的に向かって挑戦していく。サッカーはそんな意味で未来志向のスポーツで、その未来にむかってベストを尽くし挑戦していくスポーツに見える。だから、誰かが失敗したり、自分が失敗した時に、誰が悪いかや良いのかにこだわっていると相手にゴールを奪われたり、または気がついたら試合終了になってしまう。常に目的を見失わないことが、サッカーではベストを尽くすためには重要なのだ。これって人生でも同じだと思う。

サッカーと同じように、すでに起こったことの善悪にこだわるより、むしろ、過去の事実を今や未来にどう活かしていくか、どう現在や未来の行動に反映させるかにこだわるほうが、現実的だと思う。となると善悪や自分が正しいと思われることに力を傾けるのは、ちょっと違うってなる。今の失敗を責めるよりも、失敗した事実を次どう活かすかを考えるほうが楽しいと思う。


(写真は友人のメモ)

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