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わたしの好き嫌いが世界基準教

子どもの頃、それも8歳くらいまでは泣いた側が擁護される世界に生きていた。いや、実際はそんなわけではないのだが、物事の良し悪しというか、適切な行動か不適切な行動かの区別が8歳くらいまでは全然つかなかった。

その割には、悪を倒す戦隊モノが好きだったし、ヒーローが活躍するドラマが好きだった。まあ、今も好きだけど。

当時、わけもわからずただ、勝つ姿を見て楽しんでいたのだ。その反動なのか、成長するにつれて、戦隊モノの悪役を応援するようになり、アンパンマンよりもバイキンマンが好きなった。うん、バイキンマンは素直じゃないんだよね。憎めないし、その不器用さがかわいい。

20代のころは自分の好きが一番との信仰が強くて、他人の考えが嫌いな場合は簡単に否定していた。中々他人の好きと自分の好きの違いがわからなかったのだ。そんな中、音楽してみたり、詩の朗読をしてみたり、Barのマスターやってみたりなど、いろんな価値観に触れた結果、自分の世界の範囲が少しずつわかるようになった。そうすると分かり合えないことをわかり合うことが少しずつできるようになった。

幸いなことに、仕事以外のことで30代前半は責任を負うことになったこともあり、さらにその場所自体の哲学が自分の知性発達を促す仕組みだった。そのおかげもあり、さまざまな人との出会いがあって、自分の世界の範囲がある程度わかるようになった。ぼくはそこでようやくほんの少しだけ、自分の世界から出ることができることを知った。

自分以外の人たちの世界がぼやけてでも見えてくると、自分の好き嫌いと相手の好き嫌いの違いが少しずつ受け入れられるようになる。

これは比較的順当に知性が発達した例だと思う。

うん、すまない。意外にコレはレアケース。
多くの人は自分の好き嫌いの世界にとどまり続けている。学歴の高低関係なく、職業の良し悪しも有名か無名かも関係ないし、知能の肯定も関係ない。知性は知能とは別枠なんだ。

知性の発達は、自分の中の恐怖心と関わっている。この恐怖心をどう克服するかが知性の発達の大きなキッカケになる。自分の好き嫌いの範囲、つまり自分が認識している世界の姿や範囲を知るために、ぼくらは恐怖を克服する勇気を試されている。それが故に、自分の好き嫌いの世界の外に他人の好き嫌いの世界があることが、ぼくらの恐怖になる。だから、自分の世界とその世界で繰り広げてほしい物語を他人に押し付けてしまいがちになる。

押し付けられたら嫌だから、それは違うと反論すると喧嘩になる。良くて議論になるが、日本人は議論慣れしていないし、議論が何かもよくわかっていないから、だいたい喧嘩にしかならない。まあ、自分の好き嫌いの範囲をよくわからない人間には議論はかなり難しいと思う。たとえ議論のやり方を知っていても。

ちなみに近代で個人の好き嫌いを国民に受け入れてもらい、さらに受け入れていない人々にも従わせるようにした人で、一番有名なのはアドルフ・ヒトラーだろう。彼は自分の好き嫌いで政権を運営した。ちなみにナチス時代のドイツには議会がなかった。文字通りアドルフ・ヒトラーが支配したドイツだった。

これと同じことをする人は実際は年齢、国籍、文化関係なくたくさんいる。たまたまそれが国家という大きな社会の枠組みでは行われないか、行えない仕組みだったりするため、目立たないだけ。(世界にはまだ結構同じような元首が支配している国もある)

ついフェミとして揶揄される人々の言動って、アドルフ・ヒトラーと同じ傾向だなと考えています。例えばスカートの皺がエロくて猥褻、胸のデカさを強調しすぎてエロすぎて猥褻と私が思うから、世界全体が思って当たり前との意見なんて、ユダヤ人は悪というヒトラーの考えと同じでしょ。スカートの皺表現は人体の動きと連動させる絵を描くなら、描くでしょ。描いてるのは人なんだから。胸がでかいから猥褻って、胸がでかい人への差別? 嫉妬? なんだろう。あくまでも個人でそう感想を持つのは自由ですが、それを「猥褻で悪だ」と断定するのはユダヤ人を悪として皆殺しにしようとしたアドルフ・ヒトラーと同じ傾向に見えます。

ついフェミと揶揄される方々は個人の感じる好き嫌い=世界の共通の好き嫌いと信仰されている方なんだと思う。この主張で表現者を攻撃する方達の強烈な傾向として、自分の主張に意見する人=敵として捉えるところ。この捉え方は知性の発達が他人評価=自己評価の「環境順応型知性」で止まっている人によく見られるもの。つまり自分の世界の範囲もよくわかっていないわけです。だから意見されても、その意見自体を好き嫌いで判断するので、意見の内容が伝わりづらい。だいたい伝わらないです。

ちなみに反ワクチンな人にもこの傾向はあります。騙されてる側には特に顕著です。ついフェミと揶揄される方々も反ワクチンな方々も他人よりも自分が特別でありたいとの欲求、これつまり他人に特別視される=自己重要感が満たされる構図なんでしょう。

旗印となっている表向きの目的はあくまでも本来の目的である「他人からの特別視による自己重要感を満たす」を実現するための手段なわけです。この「わたしの好き嫌いが世界基準」この宗教を信仰している人たちが述べる多様性の意味は、少なくとも国語辞典に載っている多様性とは異なります。多様性とはお互いの好き嫌いやお互いの物語否定し合わないことで、お互いを尊敬し尊重し合う相互の関わり合いによって作られますが、彼らの「わたしの好き嫌いが世界基準教」では多様性よりも全体主義しか実現しません。おそらく最終的に内部で喧嘩して誰がどうとかで分裂するのオチです。だって「わたしの好き嫌いが世界基準教」ではあくまでも目的は多様性ではなく、自分個人の「自己重要感」を他人に特別視されることで満たすことだから。



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