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中2病どころではなく、むしろ幼稚園児の心そのままにワガママに三つ子の魂100までなおっちゃまによる、全人類に向けた魂の踊りとはこの文章のことではないだろうか?

誰に受け入れられたいのか? ということを普段ほとんど考えていない。状況によっては考えなくちゃいけない時もあるだろうけれど、他人の反応にばかり意識を向けていると、本来の目的を見失ってしまうからだ。

大昔の話、吾輩が幼稚園の年少組の時のことだ。今はどうか知らないが、4歳当時通っていた幼稚園の運動会でよくわからんが、踊ることになった。お遊戯というやつだ。風邪か何かで数日休んだ影響もあったのだろうが、振り付けを覚えられず、興味を失ったぼくは振り付けを覚えることをしないどころか、覚えようともしなかった。当然当日は踊ることができないのだが、それをぼくは恥とも一切思わなかった。当日は踊ることすらしなかった。いや、むしろ堂々と、まるでそれが当たり前のように堂々と、独自の踊りをしていたと言えるのかもしれない。

当時4歳、そうそうに周囲の真似をして踊ることを諦めた吾輩は、魂を込めて母に向かってピースをしておどけていた。しかも満面の笑みで!
それはバックミュージックを無視した動きだった。しかし、そこには母が運動会に来ていることを喜んでいる自分を精一杯伝えようとする周囲に熱を与えるほどの魂の輝きがあった。

なぜ、そんなことが言えるのか?
それは当時住んでいた社宅の幼馴染のひろみくんも、吾輩につられたのか、踊るのをやめて一緒に親にむかってピースをし始めたからだ!
その意味で吾輩の行動は、戯けた何かというよりも、魂を込めた踊りとは言えないだろうか? いや、吾輩はあえて断言したい。あれこそ最高の踊りであったと!!

旅は道連れ、世は情けという古い言葉があるが、吾輩とひろみくんのそれは「踊る道連れ、魂の表現」と言って良いだろう。たとえ、周囲とは全然違っていてもなんだ? そこには純粋な魂の主張があったのだから、振り付けと全くズレていても良いのだ!

ほんのちょっと昔のことだ(それでもセピア色)。
とある三人でよく飲みに行ったりしていたことがあった。吾輩と悪友ともう一人。
そのもう一人は普通に生きてきた人で、悪友のように会社経営をしたり、その合間に音楽をやってたり、コーヒーの入れ方教室を開いたりなどの特殊な人生を送ってきた人でもなく、吾輩のようにいきなりひとを集めて、いきなり芝居をさせるようなこともせず、引っ越し後に謎やパズルを作って自分の引越し先を当てるような引越しクイズをするでもなく、ましてや自作曲をレコーディングもしたことがないような、普通の人。

うむ、便宜上悪友をアンドリューと呼ぼう、そしてもう一人をリズと呼ぼうか。リズはどこにでもいる普通の人だった。ただし、リズは中2病だった。成人ではあるが、中2病だったのだ。それも拗らせた中2病だった。

中2病って拗れてるやん!という意見もあると思うが、一般的に述べられる意味とは異なった拗らせ方をした中2病だ。人の顔を伺って反応を決める空気読むのが過剰すぎて、むしろズレた言動をしがちな方向に持っていく中2病。他人を大事にするような綺麗事が好きな割には自分の世界に閉じこもり、自分を守ることに一所懸命な中2病である。

いつも不思議に思っていたのだが、吾輩、いや吾輩よりもアンドリューの反応や顔色をいつもリズは伺っているように見えた。三人でいる時に口を開いている時間が長いのがアンドリューだったからそう見えたのだろうが、時に吾輩の反応も伺って、自分がどう反応するか決めているように見えた。

アンドリューと吾輩はリズよりも年齢が上ではあるものの、基本的に受け入れているつもりでいたのだが、どうやらリズからすると受け入れられている感覚が乏しかったのかもしれない。少なくとも、リズは自分の好き嫌いを特に表明することもなく、何かにしがみついているように見えた。まるで、溺れまいと荒波に立ち向かっているようなしがみつき方のように、今なら思える。

リズには不安があったのだろう。こんな自分が他人に受け入れられるのかという漠然とした不安。だから、別に波が打ち寄せていなくても、波が、それも大波が打ち寄せてきているように見えたのかもしれない。一歩踏み出せば、というところを踏み出せなかったのは、リズにとってアンドリューや吾輩は信用に足る人物ではなかったのだろう。

不安先行で自分の目の前の人を見ると、他人に先に自分が受け入れられいることを感じないと自分の意見を伝えるのが難しくなる。だから自分をちやほやしてくれる人に流れがちになるのではないだろうか? とリズの反応を思い起こすと考えるのだ。まるで、無垢な乙女のように、不安と恐怖に包まれているような。そんな幼い知性を見て、吾輩は中2病やんと思ってしまうのだ。

我々はものすっごく勘違いしているけれど、実は同じものを見ているようで、同じものが見えているわけではない。過去の経験や好き嫌いで視野は限定されるし、耳に印象的な言葉も違うことだってある。似たような考えを持つことがあっても、シンクロ率が120%になることなんてなくて、当然100%になることもありえない。

吾輩はマンガ『ワンピース』を読んでも『鬼滅の刃』で煉獄さんが亡くなるシーンをアニメで見ても、泣くような何かを全く感じない(どこで泣けるねん)。しかし、『宇宙兄弟』の9巻は反則だ。あれはシーンの溜め、現実感がまあままあるストーリーであることもあり号泣する。

吾輩の意見に100%賛同する義務は誰にもない。賛同したければ勝手にすれば良いし、賛同したくなければ賛同しなければ良いのだ。それでいいし、これで良いのだ。

ぼくらは同じ言語を話していても、その言葉に含まれている意味は各個人の過去の経験や好き嫌いなどの価値観、物語によって異なってくる。他人と違うことは悪くないし、良いわけでもない。ただ違うだけだ。
違いがあまりにもケンカするような相性の場合は「分かり合えないことをわかり合う」ことをすれば良いだけだ。

おそらくリズは自分の世界の範囲も見失っているのではないかと、吾輩は思う。安住の地を探し彷徨い続けている難民のように、自分の価値を周囲に認めさせようと空回りを続けているように見えた。

自分の好き嫌いや自分が望んでいることなどを知り、どんな人生の物語を望んでいて、どんな物語となると信じているのかを知ることが自分を知ること、自分の世界の範囲を知ることなのだが、リズはそこすらわからないのだろう。だから、自分の気持ちを誤魔化してしまう。自分の気持ちを誤魔化すと、勇気が発揮できず恐怖の中に留まってしまう。恐怖の中にとどまると、むしろ自分の気持ちに嘘を月続けることになる負の連鎖が発生する。

そんなリズに、いくら吾輩やアンドリューが握手するために半歩踏み出しても、リズが踏み出さないため握手するまでにはどうしても半歩距離が遠い。おそらくリズは気の合わない吾輩とアンドリューと何度も遊んだものの、実態は我慢してついてきていただけだったのではないか? 少なくとも最後の方は三人でいるのになぜか孤独を感じ続けていたのではないかと思うのだ。

もし、リズがこれを読むなら、吾輩は伝えておきたいことがある。

・嫌いなら嫌いで良い。無理に好きなフリとか友達のフリをする必要もない。
→そんな態度は周囲にバレるし、結局ぞんざいな扱いを受けることになる
・生きているだけでスゴイ! 偉い!
・存在しているのめっちゃありがとう。(バタフライエフェクト的に)
・自分の好き嫌いに忠実に!
 →吾輩を嫌っても良いし、憎んでも良いし、ボロカスにもし言いたいなら言っても良いです。本当に大事にしたい人や大事にしたいことを知って、そんな人や事を大事にしてください。
・他人の評価で自分を評価するのではなく、自分が大事にしたいことをどう大事にするかで行動して、その行動の結果から自分を評価する方が良いと思う。
 →つまり中2よりさらにワガママな幼稚園児くらいで良いと思う。(一旦他人からの評価を捨てる)

ちなみに、これってこの世の中に生きている全てのリズに伝えたいことでもある。

ポジティブシンキングってさ、綺麗事を口にすることじゃなくて、今の自分を受け入れた上で自分が望んでいる物語に近づくために言動を実行することなんだよ。

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