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ツマラナイ→オモシロイ

先日からTwitterのタイムラインに「#自分をつくりあげたゲーム4選」とのハッシュタグに関するツイートが目につくようになった。他人のそのハッシュタグについてのツイートを見て、この人は同年代かな? もう少し若いかな〜とか考えて見ていた。

ぼくの世代のゲームといえば、ファミコン、スーパーファミコン、あとはセガサターンやPlayStationあたりがメジャーだったかな。ファミコンは8ビットで使える色は16色。8ビットは1バイトだからデータ量としてはめちゃくちゃちっさい。16色を駆使した表現と仕組みで、多くの子どもたちが熱狂していた。

ぼくは今となっては全然ゲームをしなくなったけれど、昔はかなり好きでやっていた。ロールプレイングゲームなら、レベル1で最初のダンジョンにつっこみ「逃げる」を駆使して生還し、とにかくどんどん進めることを好んだ。レベル上げはあまり好きじゃなかったなあ。話のつづきを早く知りたくて、どんどん勧めたくなるんだよね。

8ビットのちいさいちいさい世界から生まれたゲームの中で、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーなど今も続いているシリーズがあるのはすごい。

そんな面白いゲームがある反面、面白くないゲームもあって、途中で飽きたりすることもあった。多分作ってる人って、面白いゲームを作ってやろうって思ってやってたんだろうけど、その努力の全てが結果につながるわけじゃないんだ。

それは仕事でも同じで、自分がこめた想いが相手に伝わるかっていうと、むしろ伝わらないことの方が多いんじゃないだろうか? たくさんの想いを込めて、仕事の仕組みを作っても、それが相手に伝わらないことはたくさんある。どれだけ想いをこめても、いくら想いをこめても、自分の脳内にあるオモシロイが伝わらない。それは受け手にとっては、オモシロくないものなんだろう。なら、伝え方を変えるとか、オモシロくないをオモシロくすることをもう一度、場合によっては何度でも考えて、何度でもやってみるほうが良い。どうしようもないのなら、自分がオモシロイと思う方向へ方向転換するのが良いな〜と思う。

オモシロイことをするって、特に仕事とかとなるとけっこう始める勇気がいるのかもしれない。とくに一度できあがってしまった組織に、オモシロくなるような変化を求める場合、オモシロくなるための変化を怖がる人がいる。未来のビジョンとともにオモシロくなるかもしれない仕組みを話しても、そんな人は聞いているようでも聞いてないし、見ているようでも見えていない。失敗=終わりということに恐れおののいているんだろう。失敗=終わりというのは、誰しも取り憑かれやすい亡霊のようなものなのかもしれない。亡霊に取り憑かれた人から亡霊を除霊することは難しいし、だいたいはできない。だって、自分を救うのは自分自身だと思うから。

オモシロくできそうなものをツマラナイままで放置する。それは単に怖いだけなんだろう。変わるってことはいくつか想定外が出てくる。今のままだって想定外は出てくるんだけど、変わろうとするよりもわからないことはそれほど増えない。そこで安心してしまうんだろうな。そうなると、どんどんどんどん、むしろ自分たちを追いつめることになるんだけど、その状況を指をくわえて眺めることを選んだ人には、何も言えない。だってそれがその人が選んだその人の人生なのだから。


ちなみに、ぼくが選んだ「#自分をつくりあげたゲーム4選」はこの4本。
『ファミスタ93’』
『キャプテン翼2』
『ドラゴンクエスト6』
『ルドラの秘宝』

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