あきゆ

有罪デモクラシー

あきゆ

有罪デモクラシー

最近の記事

有罪デモクラシー⑦

 まず制度の改革に必要なことは、短絡的には、第三勢力による現制度の完膚無きまでの破壊であろうと思う。物理的にも精神的にも、今のままでは国が立ち行かないと国全体が敗北感を味わうことが制度の抜本的な改革には至らないであろう。これが戦争による破壊だと、他国の干渉を受けてしまうから、あくまで自国の中で完結する制度改革を目指すのであれば、国内で壊滅的なクーデタが起き、それを鎮静した後に行うべきだろう。  まぁ確かに、改革のタイミングとしては破壊の後の再生が都合がいいものではあるが、他

    • 有罪デモクラシー⑥

       民主主義の破壊と再構築について、より重要なのは再構築の方法よりも破壊の仕方である。欧米式の民主主義のように市民革命による破壊は選択肢に入れにくい。市民革命は、支配階級によって被る不自由と抑圧があってこそ、そこからの解放を求めて行われるものだからである。これは差別だ、抑圧だ、と感じることは恐らく現代日本にもあるだろうが、既にある程度の自由が保障されている状態において武力による革命は求心力を得にくい。腐っても日本は民主主義国家ではある。  そもそも民主主義を抜本から改善するた

      • 有罪デモクラシー⑤

         「不自由な自由」とは何か。国民の「自由意志」は本当に実現しているのだろうか。自由とは、真っ白なキャンバスに何を描いてもいいと言われるようなものである。何をどう描くかは自分次第、という状況はまさしく「自由」と言えるかもしれないが、いざそのキャンバスを埋めるとなったらどうするであろう。画材はどうするか、絵のモチーフは何にするか、そもそも絵を描かなくてはならないのか、描かないという選択肢はあるのか、描いたものを他人はどう評価するのか、様々な悩みが浮かぶことだろう。  「自由」に

        • 有罪デモクラシー④

           民主主義を担うのは我々国民である。しかしながら、民主主義を正常に働かせんとして政治参加をする者はいないだろう。元来、民主主義は各グループに属する国民がそのグループの利益を追求する主張をし合うことで均衡をとっていく仕組みであるべきなのであるから、民主主義のための政治参加というのは正確な表現ではない。問いたいのは、国のための有用な政治参加をしている国民がいるかどうかである。  もちろん、民主主義の表現は選挙に他ならず、どんな思想をしていたとしても(あるいはしていなかったとして

        有罪デモクラシー⑦

          有罪デモクラシー③

           民主主義の重大な欠点は「確固たる物差しの欠落」である。前回の話では民主主義を一生懸命肯定したが、何かを肯定するのに一生懸命にならなければならないのが民主主義のルールにおける厄介なところである。議論の前提は聞き手のコンセンサスがとれていないといけないものだが、多様な価値観を認めてしまうことはその前提を否定することをも認めてしまうことである。些か極端な例えではあるが、前提を共有しないまま議論ができないのは明らかであろう。政治というフィールドでは「議論しない」という選択肢がとれな

          有罪デモクラシー③

          有罪デモクラシー②

           そもそも民主主義というルールを律儀に守る必要があるのかという根本的な問いがあろうかと思う。  現代日本の民主主義の起源として、戦時中の独裁国家、軍事国家のカウンターとして発生したという経緯がある。(大正デモクラシーなど、普選運動を中心として起こった民主主義についても、制限選挙への「反発」という意味では戦後の外発的に起こった民主化とも性質を異にしない。)集権的な体制への反作用として民主主義があり、これを否定することは道徳的なタブーに当たる。歴史の反省として、戦争の惨禍を繰り

          有罪デモクラシー②

          有罪デモクラシー①

           民主主義の意義を噛み砕いて理解しようとすれば「総ての国民の意見を無視しない」ということになると思う。民主主義の在り方、つまりは方法論としての差はあるだろうが、国民の総意にこそ力があり、一部の権力者の恣意的な政治ではなく、どんな人の意思も無為にしない政治こそが民主主義の目的にある。  ただし、この目的の最大のポイントは「総意を出し、実現する」ことにはない。この世に絶対の物差しなどないことは、民主主義の意義自体が主張していることである。誰の目から見てもAよりBの方が優れている

          有罪デモクラシー①