有罪デモクラシー③

 民主主義の重大な欠点は「確固たる物差しの欠落」である。前回の話では民主主義を一生懸命肯定したが、何かを肯定するのに一生懸命にならなければならないのが民主主義のルールにおける厄介なところである。議論の前提は聞き手のコンセンサスがとれていないといけないものだが、多様な価値観を認めてしまうことはその前提を否定することをも認めてしまうことである。些か極端な例えではあるが、前提を共有しないまま議論ができないのは明らかであろう。政治というフィールドでは「議論しない」という選択肢がとれない以上、誰かが、えい、と、ある一定の物差しで物事を判断しなければならない。ある一定の物差しで行っているわけだから、それ以外の物差しで測れば当然非難が生じてくるわけだ。ここに民主主義の苦悩がある。

 民主主義の完成形は別に直接民主制ではない。1億2000万人の意見など聞いていられないし、仮に聞けたとして、1億2000万の意見の落とし所などないからだ。致し方なく、意見の集約としての地方自治体の長や国会議員を選ぶことで国民の声は公約数をとっていく。

 意見を集約するのは難しい。例えば学級委員長が文化祭でのクラスの出し物について意見をまとめる場合でも、機会は平等なようでいてクラスメイトたちにはごく少量の責任感と忖度と惰性と意地とがあり、これらが議論の方向性を歪ませる。

 クラスには一定数「優等生」がいる。議事を取りまとめ、実現可能かつ皆が納得いくような意見を出してくれる者たちだ。こういう者たちがいると周囲は彼らが全て滞りなく進めてくれるものだと期待するし、自信もそれが自分たちの役目だと理解していることが多い。

 クラスには勿論優等生だけが占めるのではない。早く部活に行きたいし優等生たちにさっさと決めてもらいたい、どうでもいい、でも今出ている出し物はやりたくない、結局面白くないものに決まってしまった、別にいいや、そんな心持ちの生徒たちはどこにもそれなりにいる。

 文化祭において、クラスが団結して全員が協力しつつ楽しみながら成功に向かおうとする活力こそが望まれている姿だとすれば、優等生以外の足を引っ張る生徒たちは望ましくない生徒だと言えるかもしれない。しかし、それはあくまで文化祭のクラスの出し物を取り仕切る「先生」の物差しである。

 受験を押して冬の全国大会を高校生活の締めくくりとして自分の全てを賭けている3年生にとって、文化祭など些末な行事である。そんなことで中途半端に居残りをする時間などない。早く練習をさせてほしい、練習すら残り僅かな貴重な時間なのだ。そんな彼彼女のことを頭ごなしに批判することはできない。

 部活に精を出す人達を抜きにしても、まともに意見を出してくれるような優等生たちもその足並みが揃っているとは限らない。みんながみんな男女逆転喫茶をやりたいわけがないからだ。声の大きさや雰囲気に押し込められて、女装男装をどうしてもやりたくないという気持ちを押し殺さざるを得ないような生徒はいる。このようにして、クラス全員の同意を得た体で文化祭の出し物は決まる。

 ここで、「何をもって文化祭の成功」と言えるか。というのは民主主義の行方を考えるうえで重要である。クラスの大多数の「それ(で)いいじゃん」という雰囲気を優先して一部がやりたくないような出し物をやった結果それなりの団結と達成感を感じることが本当に正義だろうか。我々が経験した文化祭は本当に成功だったのだろうか。

 幸福指数というものがあるのなら、最大多数の最大幸福をとれればそれで社会の目的は達成できるだろうか。この功利主義を説いたミルは快楽(幸福と言い換えてよいだろう)を高級なものと低級なものに区別することを試みたが、結局はこれも「物差し」の話だ。だれがその幸福を高級だとか低級だとかと決めるのか。部活と文化祭どちらが大事なのか。一義的に「正しい」と言いきれない事項は星の数ほどある。

 それゆえ便宜上、我々は何となくの物差しを指標にするしかない。失敗よりは成功の方がいい、低いよりも高い方がいい、汚いよりも綺麗な方がいい、そのような大前提を我々は手探りで共有してから議論を始める必要がある。

 だから議論において前提を共有しようとしない者や全く異質の価値観を持つものは爪弾きになる。未だぼんやりした物差しの中で「間違い」が浮き彫りになるからだ。そして浮き彫りになった「間違い」と対を成すように「正しさ」が生まれる。「正しさ」を共有できたものたちはそこで初めて自分たちが「多数派」であることを自認する。議論においては多数派こそが正義である。人は正義を盾にできるほど議論に強くなる。文化祭の出し物は地域文化の研究発表より喫茶店がいい、それが正義になり、当たり前になる。社会の正義が形成されていくのだ。言い方を変えれば、社会の正義など、その程度のものでしかない。民主主義は、自立的な「正しさ」に依拠しないという意味で大変脆いものである。これが学校のクラスという狭いコミュニティではなく、「価値観の坩堝」状態の現代国家になれば尚更である。

 今回は民主主義の性質の脆弱性について述べた。民主主義のプレーヤーと方法論については、また次回。

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