有罪デモクラシー⑤

 「不自由な自由」とは何か。国民の「自由意志」は本当に実現しているのだろうか。自由とは、真っ白なキャンバスに何を描いてもいいと言われるようなものである。何をどう描くかは自分次第、という状況はまさしく「自由」と言えるかもしれないが、いざそのキャンバスを埋めるとなったらどうするであろう。画材はどうするか、絵のモチーフは何にするか、そもそも絵を描かなくてはならないのか、描かないという選択肢はあるのか、描いたものを他人はどう評価するのか、様々な悩みが浮かぶことだろう。

 「自由」には「責任」が伴う。自らが判断して生み出したものについては、自らがその責を負う他ないからだ。だから人は「自由」な中でも、既存の価値観や他人に依拠して判断をする。他人が自由な中で何を選択しているのか知りたいし、過去の事例を知りたいし、友達がどうするのか知りたい。可能であれば、自分だけが「責任」を負うことを避けたい。人間は社会的な動物である、という言葉は人間のこのような性質に基づいているはずだ。

 勿論、そういった他に依拠せずに自らの意志で判断する場面はある。だが、純粋な自分の意志とは、どの程度他の価値観に影響されていたら「自分の意志」と呼べなくなるのか、その境界は曖昧だ。人間は人間である以上、他に依拠し、忖度し、影響し合いながら生きていく他ない。それゆえ、「自由意志」というのは、「民主主義」と同様にイデア的な概念である。

 さて、この「自由」の概念をもう少し社会に落とし込もう。人間は自由な中で様々な意見を取捨選択する。その判断は自らでするものであるが、現代人は専ら自ら意見を言うのではなく、既存の意見を選びとる形で意見を述べたつもりになる。他人に意見を託せば仮にそれが誤りだったとしても批判に晒されるのは真の自分ではなくて済むからだ。自分の根っこを批判されるのは苦しい。そうやって無意識に間違いと「思われるもの」を忌避し、正しいと「思われるもの」を選好しようとする。

 それは、このインターネット社会における人間の立ち居振る舞いにも顕著に現れている。昨今のアプリケーションでは、ユーザーがそれぞれ「見たい」、「知りたい」情報を選好して、ユーザーが好む情報を追うことができる機能がトレンドになっている。言ってしまえば、人は「良い」と思うもの、あるいは「良い」と思いたいものだけに晒されることができる。

 何を「良い」と思いたいのかはそれこそ自由である。好きな人がそれを信じていたから、でもいいし、嫌いな人が反対の考えを支持していたから、でもいい。ここでも不自由な自由が顔を見せることが多々ある。 

 そこで問題になるのは、自分の見たい意見だけに晒されることで、自分に批判的な意見を目にする機会が圧倒的に減ってしまうことである。誰しも、批判をされるということは相当なストレスがかかるものである。自分から手を挙げてむざむざ批判される可能性を高めたくはない。だから挙手をして自主的に発言はしないし、意見を述べる時も誰かの意見に仮託する。インターネット上であっても、わざわざ不快になるような意見を見に行く必然性などない。嫌いな人はフォローしないのである。

 その結果、人は批判に対しての抵抗力が非常に弱くなる。自分の意見を客観化できず、意見を持とうとしなくなる。「正しい」「正しくない」を己の意志ではなく、全体の空気感だけで判断するようになる。自分のフォローしている人たちの意見、仲間の意見、ネットの意見、何となく間違いでなさそうなものを支持する。より悪いことには、その全体の空気感で「好きじゃない」「間違いだ」と判断されたものに対して簡単に嫌悪感を抱けるようになる。それはこき下ろしてもいいのだという免罪符を得たかのように振る舞うことができてしまう。そもそもその好き嫌いを自分の信念に基づいて判断していないにも関わらず。

 インターネット社会の価値観は簡単に作り出せる。所謂インフルエンサーが「美味しい」と言ったものは「美味しい」のであり、資本主義的強者(大企業など)が「売れている」と言ったものは「売れている」のである。彼彼女らをフォローしている大衆は、その価値観を植え付けられ、彼彼女らが「間違っている」と言うものには「間違っている」という判断を下す。「物差し」が簡単に改変される。これでは、売れないような意見や見捨てた方が都合が良いような事柄を拾えなくなってしまう。

 1940年代、ラザースフェルドが唱えたコミュニケーション2段階の流れでは、マスコミの意見をオピニオンリーダーという社会情勢に精通した者が解釈し、彼彼女らを通じて情報が大衆に行き渡るとされる。言わばクラスを纏めあげる優等生が存在感を表していた。しかしスマートフォンの普及率が全年代を通して8割を超えた現代、情報は直接個々人に届けられるようになってしまった。オピニオンリーダーが客観的にも「正しい」とは限らないが、大衆が踊らされる機会は確実に増えた。第三者の忖度を経ずに触れられる情報が増えるのは悪いことではないが、膨大な選択肢の前では自由は不自由に変わる。大海に放り出された大衆は、正しいと「思われるもの」に縋りたくなる。だからこそ、インフルエンサーのような恣意的にわかりやすい情報を提供する存在が金になるのである。

 民主主義で守らなければいけないのは枠組みであり、個々人の判断の強制はできない。だから「自由」という枠組みだけ守ってやるのである。「民主主義」も「自由」もイデア的な概念でありながら民主主義か自由を保障するというのは些か机上論めいているが、現実そのような構造になっている。なってしまっている。その「自由」が「不自由」であるにも関わらず。

 今までの議論を要約すれば、民主主義は維持すべき国家の体制であるが、インターネット社会が根付いてしまった現代社会は国民の価値観の取捨選択に問題があるため民主主義が正しく機能しなくなるだろうという仮説である。これから考えるべきは、この機能不全の民主主義をどのように破壊し再構築するかである。

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