有罪デモクラシー④

 民主主義を担うのは我々国民である。しかしながら、民主主義を正常に働かせんとして政治参加をする者はいないだろう。元来、民主主義は各グループに属する国民がそのグループの利益を追求する主張をし合うことで均衡をとっていく仕組みであるべきなのであるから、民主主義のための政治参加というのは正確な表現ではない。問いたいのは、国のための有用な政治参加をしている国民がいるかどうかである。

 もちろん、民主主義の表現は選挙に他ならず、どんな思想をしていたとしても(あるいはしていなかったとしても)選挙に参加することは等しく有用な政治参加である。ここで論じたいのは選挙に参加する国民そのものの性質のことである。

 我々は決して馬鹿ではない。日々それぞれが家庭を守り、学習を続け、社会を憂うことができる。職業や趣味により、突出して秀でている技術や精通した知識がある。それらは我々の生活に活かされ、用いられる。だが異に民主主義国家における政治参加となれば話は別である。生活と政治は似て非なるものだ。生活は政治に関係なく進んでいく。一国の首相が変わっても我々の生活は変わらずに続く。そんな中で政治を生活の優先事項にすることは常人なら不可能である。

 だがこれはあくまで優先順位の話であり、政治について考える力は皆当然持っている。必要なのは、政治について考える力がどのように形成されているかである。

 優先順位が高くなくとも、政治も国民の関心事項の一つである。各種メディアを通じて社会を知り、ある時は議論し、投票行動を行う。先程までの論調と矛盾するようだが、本来国民にとって政治の優先事項は高くなくてよい。民主主義を通してそれぞれの生活にとっての優先事項が主張された結果社会の均衡がとれていくはずだからである。一義的な「正しさ」でなくとも、各人の優先事項が主張されることに意義があるはずである。

 だが、現代の間接民主制では各人の優先事項を反映させることは難しい。選挙で代表者を選ぶ以上、「他にいないから」という消極的な理由で投票を行わざるを得ないことは多々ある。自身の意見を100%反映している政治家などいない。精々60%その意見に納得できる政治家を選べれば選挙は大成功と言えるだろう。

 ただ、現代において上記のような投票行動は国民の側から言えば寧ろ最善のものである。そもそも投票率の低くなりがちな現代の選挙では「投票する」行為そのものが持て囃され得る。投票自体にも意味はある。結果としての投票行動ではなく、投票に向かう(あるいは向かわない)動機を殊更考えその意義を考えたい。私が是非を問いたいのは民主主義の過程であり、その健全性である。

 日本国憲法の第21条、つまり"表現の自由"が重要視されるのは、それが国民の民主主義形成の過程において大きな意味を占めるからである。投票行動が「結果」だとすれば、その行動を起こすための「原因」としての知識や経験が必要になる。民主主義国家はこの「結果」を甘んじて享受し、「原因」が偏ったものにならないよう、また平等で公平なものになるよう努めなければならない。教育だったり、保健衛生だったりがそうだ。

 しかし、民主主義の形成を国家が独善的にリードしてしまうことは健全な民主主義とは言えない。民主主義は、あくまで国民主導であるべきで、国家が保障するのは機会の平等だけでよいからだ。国民は平等な機会を保障され、自由意志によって取捨選択を行い、そこで得た知識や経験で民主主義を実践する。

 だから、民主主義のエッセンスになるのは"表現の自由"の下で国民が見たり・聞いたり・触れたりしたものであり、国民がどう見るか・聞くか・触れるかである。国民は自由が保障されているのだから、自らの意志でそれらを決めることができる。そして自ら信じたいものを信じ、社会がどうあるべきかを投票に託す。

 ここで問題にしたいのは、国民が見たり・聞いたり・触れたりしたもの、あるいはその見方・聞き方・触れ方が果たして公平で平等で偏りのないものか、本当に国民の自由意志で選択できたものなのか、ということである。
 
 「自由」というのは開かれたものであるはずである。他から影響は受けつつも、決して強制されず、自らの信条と良心に従って選択できることが自由である。

 しかしながら、人間は自らの選択を完全に自由な状態で行使していると言い切ることは難しいだろう。集団で生きる以上、強制も同調圧力も発生してしまうからである。仮にどの集団に属するのかを自ら自由に決めたとしても、環境や人間関係などによる制限で、完全に開かれた選択肢から決めることができたかどうかはまた別問題である。

 そもそも国民の"完全な自由"を政治に求めることが必要かと問われれば、それは否である。国は"機会の平等"を保障すべきで、「自由」や「平等」を規定し強制してしまうことは、結果としてそれら自体を狭めることになってしまう。黒人の権利を保障するために相対的に白人の権利を制限するように、権利自由の直接的・積極的保障はともすれば一方の制限を伴う。国家による国民の根源的な権利自由の保障の仕方としては、環境の整備、機会の保障に留まるのである。

 それゆえに、国民は"不自由な自由"の下で政治参加をする必要がある。有り体に言えば、何が正解が分からぬまま手探りで参政権を行使しているのである。

 "不自由な自由"が現在どのような形で顕現しているのか、次回はこの論文の中核となる部分に触れる。

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