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「ロゴとしての富士山」をみて日本人に?ー四つのナショナリズムとはー

 「多桑(とうさん)」富士山を見たがる台湾人
 「想像の共同体」を読み、神奈川県にてナショナリズムを考える旅も終盤に差し掛かってきた。神奈川県のいろいろな場所から富士山が見える。横浜ランドマークタワーや江の島のシーキャンドル展望台、はたまた湘南の海岸や箱根からの富士も捨てがたい。神奈川県を歩きながら、何かの折にふと顔を上げるとビルの谷間に富士山が見えるのは実にうらやましい限りだ。
 出雲に生まれ育った私が初めて富士山を見たのは18歳の時だった。その時「ようやく日本人になれた」というような妙な感情が込み上げてきた。静岡県や山梨県、そして首都圏の、富士山を見慣れている諸氏にとっては何を大げさなと思われることは重々承知だが、18歳の私は確かにそう感じた。富士山を見ることで日本人になる?これは理屈ではない。
 1994年の台湾映画に呉念真監督の「多桑(とうさん)」という佳作がある。後に台北でも見たことがあるが、日本統治下の台湾に生まれ育ったために日本語教育を受け、子どもには自分のことを「とうさん」と日本語で呼ばせる男の人生を息子の視点で見た作品だ。「光復」すなわち国民党統治下におかれると疎外され、鉱山労働者として働いていたので肺を病んでしまう。
 幼いころ「皇民化教育」によって自分が日本人だと思わされ、日本敗戦後も生年は「大正四年生まれ」としか言わず、支配者国民党の公用語である中国語はろくに覚える気もなく、中華民国と日本とのバレーの試合では日本を応援するので子どもからは「売国奴の汪兆銘が!」と中国語でののしられる始末。65歳で亡くなる前に家族に言っていた言葉が「日本に行って皇居と富士山を見たい」だった。

「ロゴ」としての富士山
 「富士山」を見たい。それによって日本人だった頃の自分を取り戻すのか、単なるノスタルジーなのかはわからない。しかし富士山には民族を超えてナショナリズムを想起させる何かがあるようだ。見た瞬間にある国や民族のことを想起させるロゴ(アイコン)について、アンダーソンはインドネシアにおけるボロブドゥール遺跡を引き合いに出してこう語っている。
「ここでわれわれが本当にみているのは、(中略)国家の勲章としてのボロブドゥール、「もちろん、これはあれだ」という、ロゴとしてのボロブドゥールである。そしてこのボロブドゥールは、(中略)みんなが知っているというまさにその理由により、国民的アイデンティティの記号としてますます強力なものとなる。」
 私が初めて富士山を見たとき、現実の富士山を見ているのではなかったように思えてくる。私が見たかったものは、アンダーソンの表現を借用するならば「ロゴとしての富士山」だったのだろう。そしてそれを目の前にしたときにはそれまでロゴでしかなかったものが自分のものになったかのような気がしたに違いない。富士山を仰ぐという体験を通して「国民意識」を身につけてきたのだ。
 そして大正四年生まれの台湾人も、その孫の世代の私も、富士山というロゴをみれば「日本人」を想起するだけでなく、そこで「日本人としての教育」を受けていれば「日本国民」としての自覚を持つようになるのだろう。朝鮮民族にとっての白頭山や、漢民族にとっての万里の長城も同じ効果を持っているに違いない。

連綿と続いてきた富士山への思い
 富士山は大昔から人々の心をつかんできた。奈良時代の万葉歌人山部赤人の「田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ」から始まり、平安時代の「更級日記」では菅原孝標女(たかすえのむすめ)が、「伊勢物語」では在原業平も富士を仰いで歌を詠み、「竹取物語」でもクライマックスでは富士が出てくる。鎌倉時代には「十六夜(いざよい)日記」の阿仏尼も、「新古今和歌集」の西行法師もみな富士山を見て心動かされ、一首詠まずにはいられない。
 江戸時代になると富士講で庶民が詣でに来る旅行ブームが起こるだけでなく、北斎は「冨岳三十六景」、広重は「東海道五十三次」で富士を描き、世界にその「ロゴ」としての富士山が拡散していった。さらに近代には横山大観が富士山を日本画で量産し、あの「無頼派」の「デカダン」、太宰治でさえ、「富岳百景」の中で「富士山には、かなわない」と書かないではいられないのだ。
 富士山のロゴが、古典作品から近代の文学者や画家まで、連綿と伝えられてきたものが私の前に立ちはだかると、その流れの末端に自分も置くことで「民族的な安心感」を感じないではいられないのだ。そして現代人もみなこころの中の「ロゴとしての富士山」と現実の富士山を一致させ、「日本人」になっていくに違いない。そしてアンダーソンがもっとも言いたいことは次の一文だろう。
「国民は(イメージとして心の中に)想像されたものである。というのは、いかに小さな国民であろうと、これを構成する人々は、その大多数の同胞を知ることも、会うことも、あるいはかれらについて聞くこともなく、それでいてなお、ひとりひとりの心の中には、共同の聖餐(コミュニオン)のイメージが生きているからである。」

「日本沈没」と日系人
 小松左京が1973年に発表した「日本沈没」は社会現象にもなった。日本のシンボル、富士山の爆発後、日本人6500万人が離散してしまう文学作品だ。タイトル通り、専門家チームが二年以内に日本列島の大部分は海面下に沈むとされると、政府は「D2計画」という極秘プロジェクトを実行する。政界の黒幕にして、197X年当時101歳の渡老人は、プロジェクトチームに政府としての方針をまとめさせると、1新しい国を作る、2外国に帰化させる、3難民として分散させる、4何もしない、に別れた。
 この四つの方針をみていると、近代日本の「満洲国」や南北アメリカに移民した日系人を思い起こす。「2外国に帰化する」は南北アメリカやハワイに移民した人々を連想するし、「1新しい国を作」った結果、ソ連侵攻によって「3難民として分散」というより離散させられたが、それに対して日本政府は二十数年間「4、何もしなかった」ことを想起する。
 これらの方針を聞いた渡老人は言う。
「生きのびたとしても、子孫は…苦労をするじゃろうな…日本人であり続けようとしても…日本人であることをやめようとしても…日本人から日本をなくして、ただの人間にすることができたらかえって問題は簡単なんじゃが、そうはいかんからな…」
 横浜の赤レンガの近くにJICAの海外移住資料館がある。ハワイや南北アメリカに離散した日系人の歴史や社会、文化などを展示する大変興味深い場所だが、どこでも日系人は辛酸をなめつくしていることがわかる。アメリカ西海岸の日系人は太平洋戦争中、収容所に入れられたあげく、対日戦の駒として使われた。戦争が終わっても、ブラジルの日系人は日本が勝ったと信じる「勝ち組」と、現実を受け入れる「負け組」に分断され、互いに殺傷事件まで生じた。そのうち日本が経済発展すると、彼らの子孫は日本の工場労働者として再び故国の土を踏んだが、日本の行政は彼らには冷たい。

「縦糸」と「横糸」でつながる「想像の共同体」
 「日本人であり続けようとしても」「日本人であることをやめようとしても」という渡老人の言葉の「日本」を「中国」、「コリアン」に置き換え、「中国人(コリアン)であり続けようとしても」「中国人(コリアン)であることをやめようとしても」とすると、それはそのまま在日華僑・華人や在日コリアンの分断と、偏見、そしてなによりも政府からの保護が全く期待できず、低賃金労働者として景気の調節弁にされ、ヘイトスピーチや虐殺の対象にまでさせられてきた彼らの姿は、そのまま海外及び日本での日系人につながる。
 富士山の爆発からはじまる日本沈没で、6500万人の日本人が国を離れるのだが、地球物理学者の田所博士は「日本に恋をしてしまった」ために列島とともに海に沈む道を選んだ。しかし過半数の日本人が国を離れるのを目の当たりにして嘆く。
「もっとたくさんの人に、日本と…この島といっしょに…死んでもらいたかったのです…(中略)この島が死ぬとき…私が傍でみとってやらなければ…(中略)いったい、誰がみとってやるのです?」
 それに対して渡老人自身は「日本人というものは…わしにはちょっとわかりにくいところがあってな…わしはー純粋な日本人ではないからな…」と、田所老人の日本に対する熱い思いをクールに見ている。そして自身が明治初期に渡来した華僑の僧侶を父に持つ、「日中混血児」であることを独白する。
 年齢的には日清日露戦争も、辛亥革命も、関東大震災も、日中戦争も、そして戦後の中華街における華僑同士の対立も見てきたはずの渡老人だが、「純粋な中国人ではないからな…」と同じようにクールにみていたのではないか。ナショナリズムについて考えるとき「混血児」の帰属意識についてももっと思いを巡らすべきだろう。
 「国破れて山河在り」とはいうが、山河が沈没したら「国」はなくなるにしても、「国民」はどうなるのか。江の島から富士山をみるとすぐ手前に渡老人が住んでいたことになっている茅ヶ崎の海岸がみえる。この湘南の浜辺やあの富士山すらなくなっても、日本人は世界のどこかで離散してでも生きていくのだろう。こころに「想像の富士山」を抱きつつ。
 そして歌人や絵師などがたたえた「想像の富士山」と自分が「縦糸」のようにつながることによって「日本人」に戻り、同じように「想像の富士山」とつながった人々と「横糸」のようにつながることで、「想像の共同体」を築き上げるのだろう。私は「想像の共同体」に必要なのは、この「縦糸」と「横糸」を想像する力であると考えている。

四種類のナショナリズム
 富士のふもとで生まれ育った人々には、扇子を逆さにしたような、あの優美な姿こそふるさとを思わせるものであろうが、他地域の圧倒的多数の人々はロゴとしての富士山をこころに抱きつつ「日本人」になる。しかしその「日本人」というのも想像されたものであり、現に我々は富士山を見て日本人になっている「大多数の同胞」に会うこともない。それでいて国民意識を想起させる。国民意識を想起させる装置としては他の山、例えば筑波山や大文字山、日本アルプス等ではかなわないものである。
 「想像の共同体」とともに神奈川県を歩いてきたが、川崎を中心に、事あるごとにヘイトスピーチ、ヘイトクライムが止まらないことなどからしてナショナリズムというものに距離を置きたがっている自分がいたのは事実である。しかし「日の丸」「君が代」はさておき、富士山という圧倒的な存在と、「上を向いて歩こう」には「国民」の存在がちらほらしつつも理屈抜きで受け入れるということが分かった。
 これもナショナリズムというのなら、ほとんどの人がナショナリズムから逃れることはできないのだろう。ようやく気付いたのが、ナショナリズムには以下の四つの種類があるということだ。
・人々、特に弱者同士をつなぐ共時的な「下からのナショナリズム」
・国家が国民に強制する「上からのナショナリズム」
・先祖の伝統や自然を子孫に伝えたいと思う通時的な「内なるナショナリズム」
・他国民を排斥する「外へのナショナリズム」
 私が抵抗を感じていたのは「上からのナショナリズム」と「下からのナショナリズム」なのだ。ただしこれらすべての共通点は、すべてのナショナリズムは「想像の所産」であるということ。読みながら歩いているうちにそれがはっきりと見えてきて、ナショナリズムに対する抵抗が雲散霧消してくる神奈川県の旅だった。


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