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助六と揚巻と被差別部落と色町

花川戸の助六
 浅草寺は東京大空襲で全焼したが、唯一北東に残る二天門だけは焼け残った。ここから東に向かうと、花川戸という町内である。そして「花川戸」というと歌舞伎ファンならばすぐに助六を思い浮かべることだろう。歌舞伎十八番のうち上演回数が最も多いという「助六由(所)縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」の主人公助六は、要するにやくざ者ではあるが、江戸っ子の「いき」を体現した役としてスター中のスターといえよう。
 一方、その素性は父親の仇討ちを果たした鎌倉初期の武士、曾我五郎ということになっている。一言でいえば荒唐無稽だ。しかし大衆の娯楽、歌舞伎に史実性を求めることのほうが野暮であろう。ここでは江戸っ子たちが彼に何を求めたのかを考えながら、花川戸から北に向かって歩いてみたい。九鬼は彼の体現する「いき」についてこう語る。
 「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識である。「鉢巻の江戸紫」に「粋なゆかり」を象徴する助六 は「若い者、間近く寄つてしやつつらを拝み奉れ、やい」といって喧嘩を売る助六であった。
 助六は父の形見の愛刀を探すため、武士たちに喧嘩を売っては刀を抜かせているが、吉原の三浦屋という遊郭に出入りするうちに揚巻という花魁に惚れこむ。そしてその刀の持ち主が「髭の意休」という趣味の悪い成金であることをつきとめる。意休は揚巻に熱を上げているが、揚巻が想っているのは助六であるため、意休にはなびかない。これが花魁のいきであった。

「武士道」を花魁に見つけたり
 九鬼は続ける。
「映らふ色やくれなゐの薄花桜」と歌われた三浦屋の揚巻も髭の意休に対して「慮外ながら揚巻で御座んす。暗がりで見ても助六さんとお前、取違へてよいものか」という思い切った気概を示した。「色と意気地を立てぬいて、 気立が粋で」とはこの事である。かくして高尾も小紫も出た。
 高尾も小紫も、権力や金銭になびかず、こころから想う男に操をたてたという伝説の遊女たちである。この後、九鬼は興味深い説を述べる。
「いき」のうちには 潑剌 として武士道の理想が生きている。「武士は食わねど高楊枝」の心が、やがて江戸者の「宵越の銭を持たぬ」誇りとなり、更にまた「蹴ころ」「不見転」を卑しむ凛乎 たる意気となったのである。「傾城は金でかふものにあらず、意気地にかゆるものとこころへべし」とは廓の掟であった。「金銀は卑しきものとて手にも触れず、仮初にも物の直段 を知らず、 泣言を言はず、まことに公家大名の息女の如し」とは江戸の太夫の讃美であった。
 権力者側になる意休よりも、社会の最下層に置かれた助六や揚巻のほうに「武士道の理想」を見出したのが九鬼であり、そして何よりも江戸っ子たちだったのだ。

助六のふるさとを歩く
 江戸は身分社会であった。単純化すれば山の手に広大な藩邸や武家屋敷が建ち並ぶのと対照的に、浅草周辺の大部分がせせこましい町人地だった。
 通訳案内士を対象に、「裏浅草」のウォーキングツアーを開催したことがある。二天門から東に100メートルも進めば、観光地としての浅草は一変する。花川戸公園には助六の歌碑だけでなく、「履物屋街発祥地」の記念碑もある。そして公園の向かいには労働局皮革技術センターもあり、隅田川沿いに1.5㎞ほど北上すると、東京都人権プラザの北に皮革産業資料館もある。皮革、履物、川沿い、人権、と並ぶとピンとくる方も多いだろう。助六のふるさととされるところは、被差別部落だったのだ。
 招き猫で知られる今戸神社のすぐ南には本龍寺という真宗大谷派の寺院がある。ここの墓地の左奥側に「矢野氏墓」と刻まれた墓石がある。江戸時代に被差別民にされた人々は、氾濫したら真っ先に流される河川の近くや、崩れやすい山の下などに集住させられ、人々の忌み嫌う屠畜業や皮革産業、処刑人等の「穢れた」職業に従事されていた。ただ裁きを受けるときは一般の奉行ではなく、幕府側からは「穢多頭(えたがしら)」と呼ばれた弾左衛門に権限が与えられた。世襲制で矢野氏を名乗った弾左衛門は、幕府から関東全域の被差別部落の行政を任された。
 被差別部落民同士、協力していたかというと、そこにはあからさまな支配・被支配構造があったという。幕府は被差別民を被差別民に支配させたのだ。後17世紀には皮革産業が弾左衛門の支配から抜け出した。しかし上述の職業以外で18世紀初頭になっても支配を受け続けていたものがあった。それが「河原乞食」と蔑まれてきた歌舞伎役者などの芸能人だった。初代市川團十郎は弾左衛門の過酷な支配から脱するため、訴訟を起こして勝訴した。
 花川戸の助六は代々市川團十郎のお家芸だった。すると憎むべき「髭の意休」とは、この墓の弾左衛門ということになる。つまり江戸っ子たちは武士が統治のためにでっち上げた「被差別民」に、支配階層の魂たる武士道を体現させたのだ。とはいえ、江戸の観衆にそのメッセージは通じまい。また髭の意休=弾左衛門説は、史実ではなく歌舞伎一流の荒唐無稽なネタかもしれない。ただ観衆は「権力者」に刃向かう助六に、武士道由来の「張りのある意気」を感じた。そのような「裏事情」を秘めた矢野弾左衛門の墓地も、今はひっそりとしている。
見返りの柳を曲がって吉原へ
 本龍寺より北西に1㎞ほど土手通りを進むと、ガソリンスタンド脇に柳が植えられている。「見返りの柳」と呼ばれるこの柳の木を東に曲がると、湾曲した坂道である。1657年の明暦の大火で、幕府公認の遊郭の町、吉原が全焼した。とはいえ、当時の吉原は現在の日本橋にあった。それをまるごと移すため、江戸のはずれの湿地帯だったこの地に盛り土で約900m四方の人工的空間を造成し、塀で囲んで巨大な遊郭にしたのが現在の吉原である。
 「土手通り」とは、ここが昔湿地帯に土手を築いて吉原に行く道にした名残に他ならない。そして曲がった道は、客が「悪所」とされたところに出入りするのを見られないようにしたものという。そして坂道を上るのも、吉原全体が盛り土だったからである。
 吉原の通りには数多くの「喫茶店」があるが、ここはカフェではない。どの「店」に入るべきか勧めてくれる、有料案内所である。実はこのシステムも江戸時代からあったものだという。碁盤の目のように整然とした街並みには赤や青や黄色の目を引くような店舗が建ち並ぶ。歩ききったところに、昔の遊女たちが日々拝んだという吉原神社がある。揚巻のような花魁から、最下層の者までここにお参りしたのだろう。

男の「浮き世」と女の「憂き世」
 九鬼は色街の「いき」についてこう述べている。
 要するに、「いき」は「浮かみもやらぬ、流れのうき身」という「 苦界」にその起原をもっている。そうして「いき」のうちの「諦め」したがって「無関心」は、 世智辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない 恬淡無碍 の心である。「野暮は 揉まれて粋となる」というのはこの 謂 にほかならない。 婀娜っぽい、かろらかな微笑の裏に、 真摯 な熱い涙のほのかな 痕跡 を見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を 把握 し得たのである。
 吉原というのは何の因果かここで身を売らざるを得ない女性たちにとっては「苦界」すなわち「憂き世」であった。それは「諦め」ざるを得ない自分の人生をきれいさっぱりと棄て去ることによって「いき」となった。そしてそれは同時に男性にとって、大枚をきれいさっぱり遊女のために捨て去る「いき」な「浮き世」になったのだ。そして男女それぞれ異なる「いき」を結び付けるのが、九鬼に言わせると「媚態」なのである。
異性間の尋常ならざる交渉は 媚態の皆無を前提としては成立を想像することができない。
 その「交渉の場」こそ、この吉原だったのだ。

吉原は「城塞」か?
 その先の台東病院からはまた折れ曲がって下り坂であるから、花街はここまでであることがわかるが、その脇には弁天池がある。今は規模が小さくなったが、昔はここに巨大な池があり、女神の弁財天が祀られていた。そして女性的な観音像もたっている。なにやら霊気が漂いそうな場所だと思ったら、関東大震災の時には遊女たちが一斉にそこに逃げ込もうとしたため、溺死や圧迫死で五百名弱もの命が失われたという。彼女らは「大正デモクラシー」の時代にも、籠の中の鳥だったのだ。
 吉原を離れるべく、坂を下りながら思った。ここはまるで古代中国の城塞ではないか。四角形の空間の周りに濠を掘り、見張りが厳重な城門をくぐると、城内は碁盤の目のようである点などそっくりである。さらに、遊郭は「廓(くるわ)」ともいうが、日本の城郭において本丸、二の丸、三の丸などの一つ一つの区域のことも「曲輪(くるわ)」とよぶ。
 しかし根本的に違うのは、中国の城塞や日本の城郭は外敵から内部を守るためのものであったのだが、ここは内部の遊女たちの脱走を防ぐための設備だったということだ。

「生れては苦界 死しては浄閑寺」
 台東病院から北に1㎞ほど進むと、浄土宗浄閑寺である。遊女はかつて、死んでも墓をたててもらえなかった。1855年の安政の大地震の時も、数多くの遊女たちが亡くなったが、彼女らは1㎞程離れたこの寺に投げ込まれた。そこでここは別名「投げ込み寺」と呼ばれる。狭く薄暗い墓地の裏手にまわると、新吉原総霊塔がたてられているのだが、成仏しきれていない魂がさまよっているように感じられる。正直、ここまで霊気漂う場所を下町で見たことがない。
ともかくも「いき」のうちには運命に対する「諦め」と、「諦め」に基づく恬淡とが 否み得ない事実性を示している。
と、九鬼は書いているが、性病や各種疾病におかされても客を取らせられ続け、十年の「年季明け」を待たずして亡くなった人々、そして頻繁に起こった地震や火災で命を失った人々が、運命を「諦め」、恬淡としていられるのはおよそ嘘であろう。これに関しては九鬼の「いきの構造」を疑いつつ、夕暮れの浄閑寺を去った。(続)


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