いじめについて

どこの世界にもいじめをする奴がいる。

そしてどこの世界にもいじめに気がつかない奴がいる。

私はいじめが大嫌いだ。そしてある程度の年齢にはいじめに目を背けて生きていた。

子供の頃はいじめを仲裁したり、阻止したり当然のことのようにしていた。だから自分の周りにはいじめはなかった。孤立している子にも声をかけたりしていた。

しかし、中学上がるくらいからそれをすることで自分が攻撃の対象になったことがあった。あの頃は自分も精神状態が不安定だったから、次第にいじめに対して目を背けるようになってしまった。そこから大学へ入学する頃まではいじめから目を背けるようになってしまった。今でもそれは情けないことだと非常に後悔している。もっと自分に力があればと思い何度も夢に見る。

社会へ出てからはいじめらしいものを直接見ることは減ったものの、自分が気がついていないだけなのかと思ってきた。そして今ではわかるのが「挨拶を返さないこと」これがいじめの一つだと知った。考えて見れば当然のこと。挨拶をしても無視するのはマナー違反でもあり非常識なこと。これを意識的にしていることは当然のことだが、いじめだろう。私はどれだけ嫌な人でも気の合わない人でも挨拶だけは必ずする。それが大人のマナーでもあり、子供でも常識だと思うからだ。そしてそのように周りから躾けられた。

たまに聞くが「あいつのこと嫌いでムカムカしたから挨拶されてもしかえさなかったわ」という人がいる。傾聴をすることが好きな私でもそれだけは「さすがにそれは子供っぽいし良くない」と伝えるもそういうことをしちゃう人間というものは一定数いるものだ。

キンコンの西野亮廣さんも同じようなことを言っていた。”「挨拶をしない人」はシンプルに頭が悪くなる。キンコン西野がそのロジックを解説”とあるが、それほど挨拶は基本的なことだと思う。そもそも、世界にいくつも言語があるが挨拶のない言語は聞いたことがない。実はどうでもよい言葉の気もするが、世界中であるということはきっと必要なのだろう。日本語で言えば「自由」「社会」「愛」「権利」は明治以降の言葉。でも「おはようございます」などの挨拶はもっと歴史が古いのだ。

そんな挨拶ができない人にはそれ以上新しくできた「社会」「愛」などないと思う。現に昨年に出会った女性2人は挨拶ができなかった。一人は26歳だったかな。国立大学まで出てるのに驚いた。そして2人とも共通してるのが社会性に乏しく、会社内の評価だけで生きる寂しい女性。1人は異常なほどの肥満体型だった。やはり挨拶ができないということは「社会」まで辿り着けないし、「自由」と「権利」が混同してるようで、掃除機のように食事を掻き込む肥満児になっているようでした。肥満には色々理由がわるだろうが、挨拶ができない人が肥満になると「やっぱりな」としか思えない。

いつのまにか話はそれたが、いじめをする人は私は人だと思わないことにしている。だから、している人は人としての扱いを受けないことに不満を持ってはいけない。いつか人以下の扱いを甘んじて受けなければならない世界が来るだろうと思った。い

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