見出し画像

もう「推し」とか「沼にハマる」という言葉に振り回されたくない

いたるところに存在する「推し」「沼にハマる」という言葉に私は最近辟易としている。誰か、何かに対して「推す」「沼にハマる」という言葉が表す行為・状態自体は良いことだとは考えている。何かに夢中になれることは、とても素敵なことだ。私自身も、あるアイドルグループが大好きでいわゆる「推している」「沼にハマっている」状態といえるだろう。でも、それでも私は、「推す」「沼にハマる」という言葉を今はもう使わないようにしている。

私自身も「推し」「沼にハマる」という言葉は以前はよく使っていた。しかし、これらの言葉を使い続けて、寄り添っていくうちに、だんだんと自分が好きな人・モノに対してある種の「義務感」のようなものが生じてきた。SNSなどでよくみる「推し事」と表現されているようなものである。推し関連のグッズなどはもちろんのこと、推しがおすすめしてくれたものを購入したり、おすすめしてくれた場所に行ったりすることで、「推し」にコミットできている気がした。そしてそんな状態になっていることを「いやあ、沼にハマってるわー笑」などと、自己陶酔するようにツイッターなどにつぶやいていた。しかし、この「推し」「沼にハマる」という言葉をどんどん使っていくうちに、やがて、そこまで欲しいとは思わなかったもの、得たいものでないものにまでお金や時間を使うようになっている自分が生まれていった。でも、それらは「推し」のためだ。「沼にハマっている」からしょうがない、という言葉で自己肯定をすることで、それらもすべて「推し事」、そう、推しとコミットできているという喜びとして捉えた。しかし、だんだんとその状態でいることに私は違和感を覚えた。完全なきっかけというわけではないが、いろいろな企業のマーケターたちが「推し」やそれらに類似した言葉・表現をマーケティングであからさまに当たり前のように使うのが散見されるようになってから、だんだんと、やはりこの状態は健全ではない気がしてきたのだ。

なにを大げさに書いているんだと思われそうだが、言葉というものは非常に強いものだ。「推し」「沼にハマる」という文字の連なりだけで、私の場合、自分が好きな人やモノのために動き、時間をささげることに対してなんの疑問も抱かずに、行動経済学者のダニエル・カーネマンが唱える本能的・反射的な思考、いわゆる「システム1」だけで動くようになっていった。マーケティングは、基本的にこの「システム1」をいかに刺激するかが問われているので、たしかに「推し」という言葉は、「宣伝ワード」としてはうってつけなものだと思う(とはいえ、最近マーケティングもこのシステム1だけを刺激すればいいというものではなくなってきている。この辺のことについては、ここでは書かない)。

「推しは推せるうちに推せ」「どんどん沼にハマれ」という言葉には、確かに魅力があるし、刺激のパワーがめちゃめちゃ強い。でも、だからこそ、これらの言葉を唱えているうちに、自分が求める・準備できているレベル・財産(収入・時間など)以上の過剰のコミットメントをしがちになってしまうといった問題が私のように生じている人もいるかもしれない。少なくとも、私はそういう生活をしている時期があった。いまも完全には消えてはいない。

何かに夢中になることは、素敵なことだ。でも、「推し」や「沼にハマる」という言葉を使ったり、誰かが恣意的に使う「推し」「沼」という言葉に踊らされ、振り回され、やがてどこか自分のコントロールを超えるレベルで好きな人やモノとコミットメントすることが、私はもう嫌なのだ。もう、この二つの言葉に、私は振り回されたくない。

もし、今何かに夢中になっていて、でも、どこかその夢中になっているものに対する自分の在り方が「なんか、ちょっとキツイ」と感じている人は、たぶん、それは健康によくないので、一歩立ち止まって「推し」とか「沼にハマる」という強力ワードを使わないようにするだけで、楽になるかもしれない。

あとは例えば、自分が好きな人やモノの「こういうところが好き」「こういうところに魅力を感じる」といったように「自分が好きな人やモノの、具体的にどんなところに自分が夢中になっているのか」をできるだけ深く考えることで、自分が求めるもの以上の”推し事”はしなくてもよくなるかもしれない。

これらの言葉に流されることなく、自分の夢中になっているものを見極めて好きが続けば、いいと、私は思う。

とにかく。好きなものと、素敵な時間が過ごせますことを。