雨

kissへのプレリュード

 送ってくれるはずの車は、一歩エントランスを出た隙に後姿を遠ざけた。そう、姿を黙認しつつ、無情にも走り出したのだ。
(またやった・・・)
 そう、初めてじゃない。小走りに追いかけるわたしの滑稽な姿に、運転席の彼がほくそ笑んでいるのが目に浮かぶようだ。もちろんそのまま走り出していくわけではないことも知ってる。困惑するこちらの姿を見て楽しんでいるのだ。
 案の定、数キロ先で車のお尻は赤く光って止まった。そしてカチカチと点灯する両えくぼが、これまた惨めさ加減を増幅させる笑顔にすら見える。
 このままあちらを無視して歩幅を縮めてもいいのだが、背に腹は変えられない。送ってくれるだけでも良しとしなければ。だからいつものように小走りに助手席に向かう。が、今日はいつもと違うようだ。影が見える。
 いつもの癖で? いや、いつもと同じように助手席のドアに手を掛け、引き上げた瞬間『先客だ』と、彼の声。助手席の先客の顔も確認できないままドアを閉めなおし、黙って後ろに乗り込む。
「ごめんなさいね」 
 助手席の彼女が言う。声を耳にせずとも解っていた。なんとなく・・・そう、別な彼女。
(そこはわたしの席なのに・・・)
 確かに約束されている席ではないが、ここ数ヶ月は、黙って自分の席だった。
(ホントに新しい彼女?)
 若い、かわいらしい彼女。まさに彼好みといった感じ。今風の・・・。
 そんな緊迫した時間が、どれくらいたっているかなんて把握できるわけもないが、たとえ数分でも長いものだ。窓の外を見、疲れてる感を装う。それが精一杯。
 なにを話しているのかさえ耳には入ってこない。まるで、後部座席なんかないみたいに、彼女はありとあらゆる魅力をふんだんに使い(私にはそう感じる)、彼と話をする。夢の中で聞いている会話みたいに。
 本当に、これが夢ならいいのにと思う。
 しばらくすると、雨が窓を叩き始めた。見慣れない景色をずんずん通り越し、静かな住宅地に止まった。
「今日はありがとうございます。また、機会があったら・・・」
 とか何とか言いながら、彼女は車を降りる。
 余韻も残さず走り出す車。この男らしい行動。少しは笑顔でも見せてやれば彼女も満足するだろうに。
 雨が強くなった・・・。そう思ったら車が止まった。
(わたしが先におろされるかと思った)
 でも、彼女が先におろされた。少し優越感。女ってそういう生き物。女ってかわいい。
「なにしてる」
「え?」
「前に移れ」
 そういわれて素直に動く自分も自分だが、どうせタクシーのようなものなんだからこのままだってかまわないじゃないか。でも・・・嬉しい。
「これからお楽しみなのかと思いました」
 嫌味のひとつも言いながら、でも素直に従い助手席に移動する。
 今日は少し遠くまで来た。これからウチまで、いつもより長い時間一緒にいられる。そう思うと自然に顔がほころんだ。が、そんな顔見られたら、またなにを皮肉られるか解らないから、雨に濡れためがねをはずし、バックの中を探る。
 ハンカチが見当たらない。仕方なく、ダッシュボード下のティッシュをいただく。
「そのメガネ、凸レンズかと思うほど湾曲してるな」
 言われて彼の目元を見遣る。
 彼は目が弱い。弱いことを理由に薄い色付きのめがねをしている。でも当然ダテだから、レンズは薄い。ド近眼のビン底めがねとは比べ物にならないしゃれたサングラス。
「しょうがないじゃない」
 あまり凝視してると顔が赤くなってしまうので、目線を手元に戻す。
「コンタクトにすれば・・・?」
「あるけど、目が痛くなるし、面倒だから」
 拭きあがっためがねを掛け、いつもどおりの借りてきた猫の姿勢。バックをひざの上に持ち、窓に顔を傾ける。
 今日は雨が降ってきちゃったから、あまり彼の顔が窓に映らない。ひと時の楽しみなのに、神様はいじわるだ。
「メガネは仮面だ。よほど自分に自信がないらしい」
「あなたに言われたくない。あなただってかけてるじゃない、色眼鏡」
「オレはデリケートなんでね。予防だよ」
「そんな色眼鏡じゃ、せっかくのカラーコンタクトが台無しですわよ」
(あーあ、またいっちゃった)
 そう、彼が目を隠そうとしているのには理由がある。それはカラーコンタクトの中。彼はオッドアイなのだ。どんなに変えようとしてもうっすらと解ってしまうのか、それが色眼鏡の真相。ようく見ないと解らないと思うのに。そう、いっぱい顔を近づけないと・・・。彼の顔をそんなに近くで見れる女はいるのだろうか? 言ってしまって自己嫌悪に落ちる自分が哀れだけれど愛しい。惚れた弱みだ。
 そんな風に彼が気にしていることは知っていたが、唯一攻撃できるのはこのことくらい。地雷を踏んだあと、彼が黙ってしまうのは解っていても、言わずにいられない「自分だけが知ってる秘密」。声に出すことで、彼に近いと感じられる。でも、そんなわたしは彼にとっては嫌な女だ。
 急に彼の二重が厳しくなった。今日はご機嫌斜めらしい。
「目が細すぎてコンタクトが入らないんじゃないのか?」
(な・・・・)
 珍しく反撃してきた。
 ちょっと嬉しい、なんて天邪鬼。それが恋する心。
「そんなに細くない。それに、わたしは奥二重よ。まつげ短いけど」
 なんて子供じみた内容。奥二重と言ってしまって、彼のまつげが長いことを思い出した。女なのに、女として彼の容姿に劣ってる。ひねくれる要因だ。
 ビン底めがねで隠しているのは、一重や短いまつげじゃない。肉厚なまぶただ。
「限りなく一重に近い」
 今日の彼は珍しく口が滑らかだ。いつもは話しかけても相槌すら打たないのに、妙に絡んでくる。一方的にまくしたてるこちらの話を流して。いや、きちんと聞いてくれているらしい。時々、以前の話を持ち出す時がある。あの時、こういっていた・・・と。
 優しいところもあるのかもしれない。ただの嫌味なやつじゃない。こうして送ってくれてるし、どんなに喋り捲っても、一度も「黙れ」といわれたことがない。うるさそうにはしてるけど。
 本当は知ってる。不器用なだけ。たぶん。
「コンタクトにすればいい」
 呪文のような言葉だ。そんなに何度も言われたら、明日から本当にコンタクトをしていってしまいそうだ。
 急に視界がぼやけた。
「ちょっと」
 彼がめがねを剥いで行く。
(は! まぶたが・・・)
 彼から遠ざかろうと体を引くものの、ここは車の中。そんなに距離を取れるはずもなく、とっさに膝元のかばんを顔の前にかざして応戦。
「返しなさいよ」
 とりあえずバックの向こうに右手だけを差し出す。今日の彼はなんだかおかしい。明らかにいつもと違う。
「それがないと見えない」
「だろうな、こんな厚みじゃ」
「あなたには解らないわよ、きちんと見えてるんでしょ」
 情けない。言葉がしぼんでいく。カラーコンタクトがそんなにしゃくに障ったのかしら? 今までのつけ? 今日はやけに意地悪じゃないの。 
 これ以上醜態をさらせない。
(後ろに乗っていればよかった)
 なんで彼は、今日に限ってこんなに意地が悪いんだろう。
 車が止まった。信号? それとももう家に着いたのだろうか。
 差し出した右手の行き場がない。
「仮面って言ったでしょ。それがないと人前に出られないのよ」
 思わず彼のサングラスに手がかかる。仕返ししたみたい。
「らしいな」
(え?)
 らしい?・・・やっぱり、あなたもそういう目で見ていた。確かに美人でもなければかわいくもないし、到底彼の隣にいられない容姿だろうけど、口に出されると落ち込む。サングラスを持つ右手も、心のやり場もない。
「あなた、わたしのこと嫌いでしょ」
 なにを言っているの? そんなこと言ったら、次に出てくる言葉が決まっているじゃない! なにを血迷っているの? 顔が見えないから? でもかばんの向こうに彼は居るのよ。
「わたしなんか。わたしなんか・・・あなたのいろんな色、好きなんだから」
 馬鹿か。バカでしょ。小声で言っても聞こえる範囲。
(取り返しがつかないじゃない。誤魔化せない。でも)
「あなたの目の色が好きなんだからね」
 確かにそうだ。確かに目が好きなんだけど。今日のわたしはおかしい。あなたが彼女なんか乗せてくるから・・・。これで明日からわたしの席はなくなる? いろいろ言いたくなる。
 自己嫌悪。これ以上恥をかかないうちに、このままめがねはほおって帰ってしまおう。
 バックを持ち替えようと体を起こすと、突如右手を掴まれた。
「なに?」
 勢いでバックが足元へ落ちる。すぐさま拾い上げようと体を折るが、力強く右手を引かれ彼の肢体が目前に。
「顔、近いよ」
 目線だけでも逃げたい。でも彼の匂いで力が抜ける。
「よくみろ。遠目じゃオレの目の色なんか見えやしねぇだろ」

 心の動揺が、からだの震えに変わる。
 ホントに、今日の彼はおかしい。窓を打つ雨の音が、優しいピアノの音楽に聞こえるくらいに・・・。

 


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