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#家庭科が好き

いや、本音は好きではなかった・・・・
お題に「家庭科」がなかったから、無理矢理寄せてみた

今でこそお料理記事なんかをあげているわたしですが、授業に「家庭科」があった頃は、それほど興味がなかった。子どもだったし、料理は自分の「仕事」ではないと思っていたのかもしれない。だから、子ども小学生なのに「お菓子作り」が好きだとか、母親の手伝いその他で「包丁を持つ」だとか、そんなことをしている同級生が不思議で仕方がなかった。むしろ台所に立たなくてもよいという権限を放棄しているようにすら思えたのだ

しかも、小学校の最初の調理実習は忘れもしない「フレンチドレッシング」だったと記憶している。生野菜にただかけるだけの代物を、理科の実験より簡易なもので測ったり混ぜたりして作る。子どもは実験が大好きだ。それは「ままごと」の延長でもあった。でも「フレンチドレッシング」は、子どもの舌にはただの油でしかなかった。おいしくない。おいしくないものを頑張って作らなければならないと思えば、やっぱり「嫌い」になる好きではなくなる。なにが楽しいのかとさえ思ってしまうのも仕方がなかった

さて、家庭科が始まるのは小学校5年生だったか、裁縫道具の注文時はそれなりにワクワクした。自分専用の裁ちばさみや刺繍枠等々、大人のアイテムを手に入れた…という達成感でしかなかったけれど、それでも初めは自分の可能性に期待したものだ。全然かわいくない絵柄の箱ではあったが、なんでも新しいことを始めるときは心躍るものだ。ただ、最初につまづくと、その「楽しい」は苦痛に変わり「嫌い」になる。子どもわたしは単純だから、褒められたり、成功体験がなければ続けられないからだ

不器用なわたしは、上手にできるわけがなかった。それでも刺繍は嫌いじゃなかった。根が暗いわたしは、コンを詰めることには苦痛を感じることはなかった。でも、自分では「うまくやった」と思えたものが、他人と比べられたり、からかいの対象になると、途端に「恥」に思え、最終的には「嫌い」挙句に「できない」ものになる。そんなことを繰り返していれば、いい印象は植え付けられない

わたしなりに向き合っていたとは思う。なぜなら、わたしの母親は裁縫が得意で、子どもの頃はよく服を作ってくれていたから、いずれ自分もそうできるものと思っていた。「女だから」母のようにできて当たり前と思っていたのだ。そこに器用不器用はなく、女に生まれたからにはそれが上手にこなせてしかるべく…という根拠のない自信があった。昭和だと思う
自分は女に生まれ、加えて母の子だから、家事その他は黙って備わっているものと思っていたのだ。その途中の「学習」だとか「練習」だとかいう過程項目は、わたしにはなかった。今思えば昔から、なんに対してもそうだったかもしれない。目にしたものは、みな人間がこなしているものだ。自分にできないはずはないと思っていた。本当にこなせていれば何の問題もなかったのだが、そんなわけはない。知らない教わらないものをどうやってこなすのか、まったく子ども無邪気ってすごい。そこにわたしが傲慢である所以が潜んでいた

中学生になると家庭科の授業は本格化する。一年生の最初の授業は「裁縫」で、そこで自分が3年間着るであろう「割烹着」の製作があった。コンを詰めることはできても「丁寧」とか「正確」という繊細な部分が欠如しているわたしには、最初の型紙の時点で難儀した。それでも「こじつけ」「まにあわせ」という臨機応変な部分はまだ備わっていたから、なんとか、不格好ではあったが形にはなった

さて、3学期くらいだっただろうか、それとも2年生になってからだったか、早速その割烹着を身に着けての「調理実習」の時間がやってきた。学校の授業はすべて班活動。グループで協力し合っての作業になるから、多少不器用だろうが、おおざっぱであろうがなんとかそれなりのものを作ることはできた。が、そこで事件は起きたのだ

みなさんご存知のように、学校にある家庭科調理室は、食べ終わった後にそのテーブルで試食もできるような造りになっている。調理台に蛇口やガス代その他がうまく組み込まれているが、すべてがフラットになるようにできている。ガス台の形がどのようになっていたかは、いろいろな小中高の調理室が頭の中に混在していてどれがどこの学校のものかということまでは覚えていないが、とにかくガス台は腰のあたりの高さで、子どもが立って調理するにはちょうどいい高さだったとは思う

あれはなにを作っていた時間だったか、カレーだったかもしれないし、他のものだったかもしれない。とにかくわたしは鍋のなにかのなにかをかき混ぜていた。気づくと炎が顎の下まで迫っていて、わたしは「火事だ」と大声を出した。そう、わたしは燃えていた
いや、正しくはわたしのエプロンが燃えていたのだ。フラットなガス台に近づきすぎて、わたしの割烹着の下腹あたりから引火したらしい(当時は華奢だったので、お腹が出ていたわけではないことをここで言っておきたい)

目の前に炎が迫っているとはいえ、わたしは意外と冷静だった。というのも、次に「なにをすればいいか」という考えは意外と瞬時に判断できたからだ。燃えていながら他人事のように、とりあえず「火をどうにかしなければならない」とは思っていて、普通ならそこで水をかぶることを考えるのだろうが、ガス台から離れたわたしは、近くの生徒に背中の紐を「ほどいて」くれと頼んだ。いや、自分でもやれたかもしれないが、その時は手に菜箸かへらを持ったままだったから、自分ではできないと解釈し、他人に委ねた

紐がほどければあとは前屈みになって脱ぐだけだ。当時から背の低かったわたしは、今では考えられない「S」サイズ。規格の割烹着も比較的大きめに出来ていて、意外とすんなりと腕を抜いて床に落とすことができた。そのままわたしは自分の割烹着を踏みつけてことなきをえた

騒ぎが終わって黒板のある方角を見ると、先生が消火器を持ってこちらに向かおうとしていたところだった。いや、おせぇって・・・・とはいわなかったが「先生今まで何してた?」とは思った
まぁ、ボヤ騒ぎで済んだわけだけれど、実習が終わったあと職員室に呼び出され、警察の尋問よろしくこっぴどく絞られた。その辺の事情はよく覚えてはいないが、職員室で「先生の前に立たされている」という状況はただただ罪悪感でしかない

午後の授業に遅れて登場したわたしのジャージは焦げ臭く、周りからは変な目で見られることになる。当時は胸に大きなゼッケンがついていたから、自分の名前が解らなくなるくらいのあともしっかりと残り、数日間興味の目にさらされることになった。そう、それは「興味」であって「心配」ではない
そこで想像してみて欲しい。割烹着の下はジャージだったのだ。わたしはヤケドをすることなくまったくの無傷ではあったものの、そんな燃えやすいものを身に着けていたわけだから、サクサクと行動できていなかったら、もしかして「救急車に乗っていた」かもしれない事態もありえたのだ。当時は「バカだなぁ」で済ませた話だったが、ちょっと今考えると怖い

そんな初期のころに授業で作った割烹着をダメにしたわたしは、3年間、調理実習の際は母親のかわいくない割烹着を身に着けることになる。当然、ひとりだ。年度が替わって進級すると、なぜ転校生でもないわたしが「母親の割烹着」をつけて授業を受けているのか、知らないひともいるわけで、その都度先生が説明するものだから、恥ずかしさ極まりない。当然「調理実習」の時間が嫌いになる

ようやっと3年経って、わたしは卒業を迎えるわけだが、入れ替わりに今度は妹が入学。本人が忘れたいことを、いなくなっても「恥の上塗り」というやつはやってくる
なんと、割烹着を作る授業の中、その自前のエプロンを「燃やした」生徒がいるという話をされたというのだ。しかも調理実習の前には数年前の「エプロン出火事件」が必ず語られ「そのようなことのないよう注意しましょう」と、これまた他人事のように吹聴されていた

あたし、伝説じゃーん

とは、浮かれてはいられない。とても恥ずかしい事件
なぜか妹の周りには、それが「わたしである」ことがバレていて、ますますわたしを毛嫌いすることになるというおまけつき。そりゃそうだ。わたしの同級生の兄弟には、妹の同級生にもたくさんいたのだから、知れ渡っていてもおかしくはない
ということで、わたしの顔は知らなくても、わたしのことは「授業中にエプロンを燃やした人」ということはわかるという、有名税をいただき、ついでに「エプロンを燃やした人の妹」という密かな話題が妹を取り巻くことになった

今となっては笑い話だけど・・・・

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