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アルバイトの履歴書

おもしろい記事を見つけたので、参加させていただきたいと思います ↓ ↓ ↓


人前に立つことを良しとしなかった羞恥心の塊だったわたしは、学生時代、自ら「アルバイトをしよう」などとはさらさら思っていませんでした。電車とバスを使っての通学だったため、通学定期を買う際バスは回数券にして余ったお金を自分の財布に入れていたのでお小遣いに困ることはなかったし、部活もやっていなかったわたしは学校が終わるとさっさと家に帰っていたため、それほどお金を使う機会もなかった。とはいえ「お金が貰える」ことに興味がないわけではなかった
初めてのアルバイトは確か高校2年の夏休み。しかし驚くなかれ、初めてのアルバイトの時給は¥430だった! なにそれ、ものすごい低賃金!? だって当時47都道府県で最低賃金最下位の福島県なんだもの、そりゃぁ片手を切りますよ・・・・ってなわけで、わたしのアルバイト遍歴です

いろいろとやりましたが、印象深いところをピックアップしてお届けしたいと思います

賄いの時間が怖かった

部活もやっていなかったわたしの夏休みはいつも、うだるような暑さの中、昼寝をし、家の中が寝静まった頃に起きだして、ラジオを聞きながら「小説を書く」という気ままな生活だった。でも珍しくその年の夏休みは、幼馴染に「一緒にウェイトレスをやらないか」…と誘われ、羞恥心の塊のわたしも「ひとりじゃないなら」となんの考えもなしに、自宅から1キロと離れていない和食屋さんに通うことになった
だがその店がある場所は、同じ町内でも「嫁はもらっても嫁には行くな」といわれるくらい女の人が朝から晩まで働く農家の多い地域で、当然ながらそこに住まわるお母ちゃんたちは勇ましく、殺伐としたオーラ漂う厳しい目をしていた
田舎町である。時代もさることながら、当然チェーン店ではなく、家族全員でお店を切り盛りしている飲食店が軒並み揃っていた時代。そこには当たり前のように、大きいおかみさんとお嫁さん、旦那さんにその兄弟姉妹、ひいては親戚のおばちゃんたち…と一族勢ぞろいで、メニューを覚えるよりもその繋がりを把握することの方が大事なようだった。接客している時はまだいいが、洗い場でじっとしているとそれはそれは「渡る世間は鬼ばかり」のような噂話と諍いごとが耳に入ってくる。挙句「あんたはどこの子だい?」と素性を知られれば、わたしの家がどこで、父親はどんな仕事をしていて、母親はどこの人間で、誰それの紹介で見合い結婚だった…とか、その他わたしの知らない自分の家の事情までを詳細に知っている生き字引みたいなおばちゃんたちに囲まれ、もう半日で辞めたくなったものだった
なにより怖かったのは休憩時間。当然お昼は営業中で、当たり前に食べられないのだが、なんと飲食店には「中休み」なるものがあり、お客がひけるといったん店が閉まる。そうして従業員が同じ場所に集まって全員で昼ご飯を戴くのだ。家が近いから自宅に帰りたい…と申し出ても「賄いまでがアルバイト代」と、帰してもらえない。この時間の苦痛といったら言いようがなかった。当然お膳の支度をするのはアルバイトのわたしたちで、ご飯のよそい方から座り方、箸の持ち方までまぁ、事細かに指摘される。とにかく、地獄でしかなかった。挙句の時給¥430、1日8時間働いても3500円にも満たない。2週間通っても50000円にもならなかった。でもそれが当たり前の時代で、わたしは「働く厳しさを知った」…というよりも、あと数年ののちに学生生活を終えたあと「世の中に出たくない」「社会人になんかなりたくない」とさえ思ったのだった
翌年、その店のお嫁さんから「また来てくれないか」と電話連絡があったのだが、受験もないのに「勉強があるから」と断ったのは言うまでもない

先生はみんな適齢期

せっかくの夏休みを台無しにされたわたしは当然「2度とアルバイトはすまい!」と心に誓っていたのだが、短大に通い始めるといろんな事情からお金が必要になってきた。自宅から通っていたとはいえ、さすがに20歳前後になればいろんな付き合いが出てくるわけで…定期代をくすねて小金を財布に貯め込む(まだやってた)だけでは間に合わなくなっていたのだ。しかも短大といえども大学なわけで、空き時間があり、その空き時間もまた1時間ではないからして当然ながら交際費は嵩む。しかもまわりはアルバイトをしていない人がいないくらいにみんながみんな楽しそうにしていた
そこでわたしは「飲食店」以外のバイトなら…と、友人の紹介で楽器を売っているネームバリューのある音楽教室で週3日、受付のアルバイトをすることになった。当時の短大生の時給は¥580~620くらいだったのではないかと記憶しているが、おそらくこの金額は当時の最低賃金よりはいい方だった(はず)
わたしたちの仕事は従業員が退社する前後、4時~5時以降から締め作業までだった。従業員がまったくいない状況で、従業員と同じ仕事をこなすのだが、だいたいが楽譜を売ったり、生徒の出欠の電話応対と、翌日の特別教室の準備が主だった
問題はそこではない! 音楽教室というからには先生がいる。いろんな楽器の教室があったが、8割がたがピアノだった。先生と呼ばれるからにはみな、それなりの勉強をしていて、肩書もついていたりして、その上プライドも然りだ。胡散臭いのから気難しいの、ピリピリしているのからもさっとした人まで、とにかく扱いにくい大人ばかりで、しかも女性が多い。またもわたしは踏み込んではいけない場所にいた!?
従業員を含めなぜかみな20代で、だれが選んで揃えたのかキレイどころ満載な職場だった。挙句「女子大生」というわたしたちに、同じ女として「どうか」と、やたら異性関係の話を持ちかけてくるのだ。そう、まだまだ社会の厳しさも知らないわたしたちの頭の上で「結婚」の2文字が飛び交っていた。短大で、高校から女子高で、男っ気もないわたしたちは浮かれた噂話に混ざってはいたけれど、先生同士で元カノ、今カノがいたり、音楽教室の営業と先生が破局寸前のピリピリした関係だったり、楽器店の店長と従業員が不倫していたりと、まぁ小説のネタには事欠かなかったけれども、当時のわたしは「恋愛小説」を書いてはいなかった
当時の教訓としてわたしたちが教えられたのは「社内恋愛は極秘で」だ

選挙権もないのに選挙運動

3日間だけ選挙運動をしたことがある。選挙事務所というのはひとつではなく、親族はもとより、いろんな会社や地域団体のひとたちがそれぞれの事情で後援事務所を立ち上げ、本部からの仕事を請け負って(分け合って)協力する。その支援者が当選した暁には、げふんげふん…いろいろとよいことが待っているのだ
さてそのたくさんある後援事務所の中、ひとつの建設会社に知り合いがいたわたしは「人手が足りない」と3日間だけ「さくら」的なアルバイトを頼まれたことがある。もちろんアルバイト代はその会社からいただくのだが、日当でわりといい金額だったように思う
仕事内容は本来なら「宛名書き」や「ビラ配り」だったりが主なのだが、若いわたしたちに求められた仕事は、決められた時間に指定された場所に行って、候補者の名前を大声でコールして歩くということだった。候補者のイメージカラーのスカーフを巻いて、道行く人に手を振りながら「よろしくお願いします」と頭を下げ笑顔で受け答え、スポーツ観戦のようにプラスチックのメガホンを持って名前を叫ぶ。なかなかにない経験だった
時代だろうか、今はそんな人を見たことがない
試しに一度「うぐいす嬢をやってみたい」といってみたことがあるが、そういう役割を担うのは声のキレイなひとだったり「しゃべり」のプロだったりで、滅多なことではお声はかからないのだそうだ。なにより「おまえは訛りが強いからダメだ」と言われた。同じ言葉を繰り返し言うだけなのに「なぜ?」と思ったものだが、数日経つとだんだんと声がかすっかすになっていくうぐいす嬢を思うと、わたしには無理だと思った。それに同じ言葉を繰り返すことに飽きて、余計なことをしゃべってしまいそうだ


勝利の女神

短大を卒業したわたしは、ニートだった。高校時代の経験から本気で「社会人になれなかった」わけではない。もともと人前に出ることが苦手だったわたしは、ひとりでは「会社訪問」はおろか「面接」の会場に行くことができなかったのだ。そんななにもできないわたしのおあつらえ向きな仕事は、おそらくたったひとりで「留守番」するくらいだったのではないかと思う
そんなある日、近所にパチンコ店ができた。パチンコ店の駐車場には、小さな換金所があって、そこは顔も見られずたったひとりでお金を管理をするのだ。だが、さすがにお金だけを眺める仕事は怖いと思った。すると、駐車場にはもうひとつ、たったひとりでできるお店があった。のれんのかかった小さな食堂だ。しかもメニューは「ラーメン」「うどん・そば」と「カレー」に「ゆで卵」。しかもそれらはお湯を沸かしておけばできる程度のもので、わたしの仕事はカレーとゆで卵をなくなった時に作ればいいという。たまにビールとお酒が出るくらいで、なにより出勤はお昼のちょっと前でいい。自分の仕切りで、自分のペースで、好きなようにできる! これぞわたしの求める仕事ではないかと思った。しかもお客さんがいない時間はなにをしていてもいいとのことだったので、わたしはワープロを持ち込んで空き時間に小説を書いていた
慣れてくると「うどん・そば」にも常連さんがやってくる。「今日はダメだった」の「儲かった」のと、気前がいいとチョコレートをくれる。新台入荷の日は、意外と暇だったりする。今でこそ「禁煙」だったり「女性専用台」があったりと、パチンコ店も清潔感この上ないが、あの頃のパチンコ店は、ちょっと中を一回りしただけでも煙草の匂いが服についてしまうような空気の悪いところだった。わたしは灰皿を洗うのが一番嫌いだった
ある時わたしは思い付き、儲かったひとにパチンコ玉をひとつ持ってきてもらうことにしていた。そして「今日はダメだ」という人にそのパチンコ玉を渡して「このパチンコ玉使うと勝てるかもよ」といった。まぁ気に入った常連さんにまた来てもらう策ではあったが、わたしは「勝利の女神」のつもりだった。だが、そうそううまくいくものでもないので「勝利の女神、全然勝てねぇぞ」とか「貧乏神じゃないのか」なんて言われたりしたのだが、それも回を重ねると「今日はダメだから勝利の女神のカレーを食べて帰る」とか「明日のために勝利の女神のそばを食べにきた」など、むしろ食堂の客寄せにはなった
ひとつ、忘れられない思い出がある。そのパチンコ店の並びに町営の「温水プール」があり、そこには近所の子どもたちが通ってきていたのだが時々、プールの帰りに寄っていくことがあった。買い食いを叱るほどの立場でもないので受け入れていたのだが、その中にひとりでやってくる子もいて、どうやらわたしは恋をされてしまったようだった。ある時彼は、課外活動の遠征に行った際、わたしにお土産を買ってきてくれた。わたしは20歳で、彼は10歳だった。どんなに幼くても「きゅん💛」とするものだ

お嬢は修行の旅に出た

相変わらずニートだったわたしは、当然ながら20歳を越えても自分の税金すら払っていなかった。わたしの父親は自営業だったが、不況のあおりを戴き仕事が少なくなっていたある時、満期になった定期預金で「これでおねぇちゃんの税金払って…」と、笑顔で言われたことがとても胸に刺さった。そこで「家にいてはだめだ」と思い、埼玉の親戚の家に大きな家庭用のワープロと一緒に旅に出た。別に自分の家にいてもよかったんだろうけれど、なぜかその時は「だれもわたしを知らない場所に行かないと、なにもできない」と思いこみ、挙句「環境が変われば、なんとかなる」と思ったのだ。それっぽいことを言っているようだが、結局は「逃げた」わけだ
その頃ようやっとひとりで電車に乗れるようになったわたしは、2駅先のデパートに入っている「ケーキ屋」さんでアルバイトをすることにした。デパートもまた女性の多い職場で、しかもケーキ屋の従業員はみな新卒採用から1、2年…という、年下ばかりだった。もともと部活もやっていなかったわたしには、上下関係を気にするような感情は持ち合わせてはいなかったが、珍しく「負けられない」気持ちはあった。「負けたくない」ではなく「負けられない」ところ、それはわたしの中の唯一の看板であり、多分わたしを作っているものだ。そうしてわたしは彼女たちの顔色を伺いながら仕事をし、結果、精神的に大人になることができた
家庭の事情から1年もしないうちに実家に戻ることになるのだが、埼玉にいた頃のわたしは、もしかしたら一番いい時だったのかもしれない。あの頃のわたしが身に着けたのは「忍耐力」と、環境が変わっても自分が変わらなければ「前に進めない」ということを知った。学生時代「もっと大人になりなさい」と言われて憤慨したわたしが、その言葉の意味を知った瞬間だった


思いのほか長くなってしまった(;一_一)

しかし、我ながらなんて甘ったれた生活だったろうと思う・・・・
ここまで書いて思ったけれど、わたし嫌われてしまうんじゃなかろうか



いつもお読みいただきありがとうございます とにかく今は、やり遂げることを目標にしています ご意見、ご感想などいただけましたら幸いです