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ココロのキズ

「誰とでも仲良くなれなくてもいい」けれど、
「誰にも嫌われてはいけない」みたいな呪縛が、
子どもの頃からあるな~と気づいた

結果的にそれって、常に気を使うってことで、ものすごいストレス

十人十色…という言葉があるけれど、みんな違ってあたりまえと言いながらも、ちょっと毛色が違うと十色でもなくて、それでもなにかひとつでも当てはまらないものかと模索していたように思う
子ども自分に「十人十色」なんて言葉知らなかったし、なんだったら大江千里さんが歌ってたから知ったような言葉だったし、個性とか個体差とか、大人にならないと「あたりまえのこと」と理解もできなかった

どうしてわたしは「小さい」の?
どうしてわたしは「足が遅い」の?
どうしてわたしは「勉強が解らない」の?

どうしてみんなと「同じ」ことができないの?

積み重なるごとに「十色」の中から外れていく。そんな日常を恨めしく思い、結果自分は「ダメな子」なんだと落ちぶれていく。好きなこともできることも、見えなくなっていった

むかしからの知人に、人見知りが激しく緊張すると失禁してしまったり、嘔吐してしまうような繊細な子がいた。その子は末っ子だったから、幼いころから母親にべったりで、でもそれが悪いわけではなく、ただひとを受け入れるまでに時間を要するだけの難しい子だった
そんな彼女は、学校が苦手だった幼少期を振り返り、自分はもしかしたら何らかのアルファベットを並べた「学習障害」だったのではないか…という。今でこそ細かくいろんな症状を当てはめてはくれるが、わたしたちが幼少期の頃は、みんなが同じ教室にいた。でも平等ではなかった

かといって、今が「平等」なのか…というとそうでもない。でも、少しはましになったのかな?
それでもまだまだ事足りているわけではない。これはきっと、ず~っと解決しない、正解のない課題なのだろう

「笑ってごまかす」という言葉がある。言葉に詰まると口元が歪む。うろたえ、目が泳ぎ、頭が真っ白になって言葉が出なくなる。それを「笑っている」と捉えられてしまうことが多々あった
笑っているのではない、どうしていいのか解らないのだ。そこを矢継ぎ早に突かれる。「なぜ何も言わないのか」「バカにしているのか」もしくは「ふざけている」と、みるみる相手の形相が変わる。もう泣くしかなくなる
次に「泣いたって許さない」と言われる。今度は泣かないように力を込める。脳に血がいかなくなるほど踏ん張って、涙を堪えようと頑張る。すると顔が強張り不機嫌を装った情けない顔になる。そんなとき、だれかが「大丈夫だよ」と声を掛けてくれたなら、なにか変わったのかしら・・・・

ヒトの顔色を見て言葉を発するようになる。無口になれればよかったのだろうが、性格がそういう自分を持て余した。わたしは黙る代わりに必要以上に飾った言葉を発するようになった。悪い癖になった
それは時に「媚びる」ような態度に見られることもあったかもしれない。でも女が故に微小は許されることもあった。また、それをすることで自分を守れることもあった。嫌いな相手と付き合うには、饒舌になる必要があったからだ。いいことだとは思えないが、それが世渡りということなのかもしれない

世の中は移り変わり、時代は変わった。でも、こういう内省的なことは変わらない。けれど、フォローできないこともなくなったかな
オトナになったな~って思うこともあれば、まだまだコドモだな~ってがっかりすることもある。でもそれは全部「個」なんだな




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