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親友が死んだ日(生きてます)

どーもぐだぐだのぐだです。
少しメンタルの調子を崩しています。
そしていつまで経っても咳が治りません。と言うわけで昼に坦々麺で荒療治を行いました。結果はお咎め無しと言ったところ。
そうして仕事終わりにダッシュで映画館に立ち寄り、駿さんの映画を観て帰るという。批評もまた書こうかね。
それにしてもあっつい。

さてさて、21歳の頃、地元の皆と夜に仲良く集まってサッカーしたり、車数台で出かけたり、まだまだ遊び盛りでした。
社会に出て仕事している子や、大学へ通っている子、フリーターで気ままに過ごしている子、垣根は特になく、「地元のツレ」という括りで毎日の様に集まっていました。
小学校から友達のタツヤもその中の1人。そしてこれはタツヤが死んだ時の話。いや、生きてるんだけれどね。
私の人生において大きな分岐点だったことは間違いなくて、いつか必ず映画で撮ろうと思っている。というか上京するキッカケにも繋がる話です。

めっちゃ長いです。

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私とタツヤはたまにしか遊ばない関係だった。
タツヤが言うにはいつも私との関係は不思議で、自分の人生の分岐点である7つの出来事全てに私がいるのだと言っていた。だから何か悩みがあったりすると私に話すようにしているらしい。嬉しく思っていた。

タツヤが我が家に遊びに来ると、私が興味のない洋楽のR&Bやヒップホップを聴かせてきては、近況の報告などしてくる。どこかへ一緒にいくこともあれば、ひたすら2人共無言で漫画を読み耽る日もあった。

タツヤは小学校時代、皆から嫌われていた。理由はなんだろうか。
柔道を習っていたタツヤは、皆よりもケンカが強いのだけれど、なんだかそれを理由に威張ったりする、いわゆる嫌なやつだったと思う。

休み時間にバスケすることになっても、嫌われていたタツヤは参加させてもらえなかったりして、そこで柔道技で相手を投げ倒し、さらに嫌われていくという。そんな日々だったと思う。イジメと言うよりかは嫌われ者といった具合だ。

母子家庭だったタツヤは、小学校3年生の時に親が再婚し、5年生で妹ができた。彼を変えたのは妹だと思う。沢山可愛がって兄貴として人として成長していったのだと思う。

とは言えケンカっ早かったタツヤは、私とよく衝突していた。
中学に上がってすぐの頃、廊下でタツヤとすれ違う度に胸ぐらの掴み合いになり、周りが止める始末だった記憶がある。

しかし、私が施設から地元の学校へと舞い戻って来た時に1番驚いたのがタツヤの変貌ぶりだった。
人はこんなにも変われるのだろうかと思うほど、優しくて他人を思いやれる。弄られキャラで簡単に怒らない。そんな愛すべき人格者になっていた。

きっと元々本人が持っていた資質なのだろう。つまり小学校時代では、周りにエネルギーを当たり散らす事情があったのだと推察する。
ともあれ良いやつになったタツヤと私はすぐに打ち解けた。
タツヤは妹を溺愛しており、共働きの両親の代わりに、授業参観に行ったりすることもあった。私も一緒に行ったこともある。兄ちゃんというのはこんなに優しくてカッコいいんだなと尊敬しかなかった。

そうやってたまに会ってはお互いの近況を話したり、それはこーしろあーしろと言い合ったりする仲になって何年も過ぎていった。

その時も21歳だったか、久しぶりに会った時に、親が離婚することになったという話や、実の父親に会いに行こうと考えているという話、そしてタツヤがいつも一緒にいるメンバー(私とはまた別のグループ)の中で、弄られキャラの度を超えて少し辛いとかの話をしていて、
お前も悩みが尽きないねなんて話をしていたのを覚えている。

その数日後、ホワイトデーの日にタツヤは事故に遭ってしまう。

タツヤは宗教2世だか3世だかで、その会合の帰り道に事故にあった。タツヤのおばちゃんから連絡を貰ってすぐに駆けつけたが、病院近くのファミレスに待機することしか出来なかった。

聞けば原付きと2トントラックの衝突事故で、タツヤはどうやら飲酒運転だったらしい。何やってんだとキレながらも心配で堪らなかった。
どうにか一命を取り留めたとの一報が入るが、しばらくは面会謝絶とのことだった。
何でも良いから自分たちに出来ることは無いだろうか、その時集まった5人の仲間で何か出来ないか考えていた。


「だったら達也が目覚ました時に生きてて良かったって思わせてやろうぜ」


と全員一致の答えを出し、その日からタツヤの知り合いから色紙に一言ずつ貰うことに決めて5分後には動き始めた。
少しでも手を抜くとタツヤが死んでしまうような気がして、ひたすらに連絡しまくって書いてもらいに家の近くまで行って、と手分けして殆ど眠らずに回りまくった。
1人1人だ。
中学のタツヤの担任の先生が姫路に移り住んだと聞けば、高速に乗り姫路までかっ飛ばした。
道中車内でタツヤがカラオケでよく歌っていたケツメイシの「ライフイズビューティフル」を聴きながら歌詞が刺さって皆で涙を堪えながら歌った。
なんなら知り合いだけではなく、タツヤが好きだと話していた歌手にまでツテをフル活用してメッセージを書いてもらった。


そうして1週間程度経ち、タツヤとの面会が許可されたので大量の千羽鶴と色紙を持って行った。
タツヤは「生きててよかった。自分がしてきたことは間違いじゃなかったんだってこれ見て思えた」と泣いて喜んでいた。そんなタツヤを見てやったぜと思った。

僅か5日間で約300人もの人が、タツヤの為にメッセージを書いてくれたんよ。
あの時快く協力してメッセージを書いてくれた人達ありがとう。
そしてそれだけ愛されてるタツヤはやっぱりすげー奴だと思った。

それからみるみる回復していき、喋りも全然以前の通りになり、まだ車椅子だったものの、さすがの生命力だと思った。

順調に思えたのだが、そんな折、胸に大きな動脈瘤が見つかってしまう。いつ破裂してもおかしくないので手術が必須なのだが、手術する為の体力を取り戻してからになること、血栓がどこに飛ぶか分からないので障害が残る可能性についてタツヤのおばちゃんから聞かされた。

死ぬかもしれない手術という訳だ。だけれど、どんどん以前の様に回復してゆくタツヤを見ていると、コイツなら大丈夫だとも思えることが出来た。

そうして手術の日、私はモトシ(5人のうちの1人、こないだ書いた親友です)と一緒に、タツヤの入院先だった赤十字病院の、すぐそばのカラオケで頼まれてもないのに勝手に待機していた。
誰でもなんでもいいから助けてあげてくれと心から願い、堪らず泣いていた。

手術が終わったとの連絡を受け、術後については目が覚めてからということになった。
その日、ようやくちゃんと眠れたと思う。

そこから数日が経ち、待ちに待った面会の日、まだ面会は家族だけということだったが、タツヤのおばちゃんが従兄弟として私とモトシだけ面会させてくれた。

おばちゃんからタツヤの状態は聞いていた。写真は常に貰っていたし、覚悟を決めていたのだが、実際に目にしたのは、顔を真っ直ぐに保ってられず、私たちはおろか母親のことすら覚えていない、本当に見ていられない位に見た目も中身も変わり果てた姿で、私とモトシは言葉が見つからなかった。

高次脳機能障害者となったタツヤが、少しでも回復できるように、何か一つでも思い出せるように、沢山見舞いに行った。
タツヤは色んな所に麻痺が残り、身体を自由に動かすこともままならなかった。身体よりも、特に記憶や思考力が著しく低下してしまった。

会ってまず「おう、タツヤ! 元気しとったか!」と話しかけると「うん」と返事をするのだが、決まってキョトンとした顔でコッチをマジマジと見るのだ。
あの感覚はどう表現すれば良いかわからないが、
まるで記憶と分離したタツヤの脳が、一生懸命に私やモトシ達の記憶を探しているようだった。

タツヤのおばちゃんの事も覚えておらず、母さんやと毎日教えていたら、何故か下の名前で呼ぶようになっていた。私は可笑しくて笑っていたが、おばちゃんは本当に複雑な表情を浮かべていた。

ある時病院からの帰り道に運転していたおばちゃんがポツリと言った。
「いっそのこと……死んでくれたら良かったんや」

一体、どれほどのことだろう。本当に表現できる言葉が存在しない。こんな言葉が出てしまう程に疲弊し切っていたのだ。

タツヤが手術をしてから、色々な状況が一変してしまった。
初めは見舞いに訪れた子らも、変わり果ててしまったタツヤを見て、やがて来なくなっていった。当たり前といえばそうなのかも知れないが、私はどうしてもそれが悲しくて悔しくて、許せなかった。友達とは?一体なんなのだろう。人との縁や、過ごした時間とは、なんなのだろう。
そんな事を考えるようになっていた。
自分たちがやったことは、本当に正しかったのだろうか、タツヤやタツヤの家族にとって、必要のなかったことなのでは無いか、心配して寄ってくれた人が、自分たちの元から去っていってしまう、そんな悲しい思いをさせずに済んだのでは無いだろうか。


嫌な事というのは重なるもので、前に書いたが好きだった元カノとの揉め事や、他にも色々な事が重なってはっきり言って限界に近づいていたのだが、何が正解で、どこで間違ったのか、分からなかった。モトシも同じ気持ちだった。

ある夜、何人かで飲んでいた時、丁度モトシが長年付き合っていた彼女と別れてしまって、なにかが壊れる、いや、何かを壊すにはこれ以上の無いタイミングだった。
酔っ払ってユンサとモトシが揉め始め、表に出ていった。行くと、モトシがユンサを殴って、ユンサの歯が欠けていた。ユンサにもうこれまでやと言うと、一生関わってくんなとユンサも言い返して去っていった。

モトシは言った。「もう…いい。おれはヤクザになる。ヤクザのツテがある。料理も辞める。誰ともつるまない、俺は1人になる。お前には感謝してる。だけどもう無理や、もうお前も必要ない。普通の世界では生きられんのや。すまん。」
文字にするとアレだが、本気で言っていた。途中からモトシは泣きながら話していた。
その言葉の一つ一つが、誰よりも理解できた。だからこそひたすら悲しくて、「そんなこと言うなよ。俺がおるやんか。タツヤのおばちゃんになんて言うんや、そんなこと言うな、そんなこと言ったらあかん」気が付けば私もポロポロ涙を流していた。
モトシは膝から崩れ落ちて、20歳を超えた大人の男が、2人して道端で嗚咽を漏らして泣いた。


そんな日が過ぎて、その日もモトシと一緒にタツヤがいるリハビリテーション病院へと訪れた。
タツヤが最初に思い出したのは、妹の名前だった。兄ちゃんは偉大だ。その日はタツヤの妹が宿題をしていて、ポケモンの下敷きを使っていたのだが、それを見たタツヤがポケモンの名前を次々と言い当て始めたのだ。
「ピカチュウ?」「ゼニガメ?」といった具合にだ。
それが可笑しくて嬉しくて、皆で笑い合った。今にして思えば、あれは間違いなく映画的な瞬間だった。

私はと言うと、当時付き合っていた彼女が支えてくれた。彼女がプレゼントしてくれたビデオカメラで、タツヤに向けてショートムービーを撮ることにした。
私の処女作と言えるだろう。その場の思い付きでしかなかったが、内容は泥棒に入った2人組の男達が、部屋を漁っているとDVDを見つける。エロビデオだと思って流してみるとー。確かにそこにあったタツヤと仲間との思い出などの映像が流れるー。見終わった2人は、泥棒をやめて帰っていくというふざけた内容なのだが、愛をたっぷり込めてタツヤにそのショートムービーを渡すと喜んでくれた。

タツヤは誕生日プレゼントにと、帽子と1枚の写真をくれた。写真にはタツヤとモトシと私が笑顔で写っており、裏には震える手で書いた一文が綴られていた。

「純平、今を生きろよ」

そうして上京を決めた私を送り出す時、タツヤのおばちゃんは泣いて感謝をしてくれた。お金なんて無いはずなのに、選別に5万円を渡してくれた。使えない、大切なお金だ。もうタツヤの従兄弟なんだからいつでも帰っといでと言ってくれた。それ以来帰省のたびに帰ることにしている。

そうやって、上京することになった。毎年ホワイトデーにはタツヤに電話するのが恒例だ。
元気になったタツヤだが、やっぱり以前のタツヤとは違うくて、性格も変わった部分もあったから、私とモトシは前のタツヤが死んだとものと思っている。
そして生まれ変わった今のNewタツヤとも親友で、大好きなんだ。多分この感覚はタツヤの周りにずっといた人間にしか分からないとは思う。

ずっと作業所で働いていたタツヤはとうとうこの前一般の仕事に就いた。工場だけど、チャレンジだ。相変わらず計算とかは苦手らしいが、縁あってチャンスを掴んだそうだ。貯金もしている。頑張れ頑張れ!

気が付けば5000字を超えてしまった💧

今日はこんなところでー👋

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