レースを走る理由と考えること
「はい、ゼッケン順に並んで」
係員の誘導に従ってスタート地点に並ぶ。少し頭から血流が下がっていくよう感覚で、手のひらはやや汗ばむ。少し胸が膨らんでいるのかと思うくらいの心臓の鼓動。
あと数十秒でスタートを迎える5000mのトラックレース。公式のレースは約3年ぶりとなる。
同じランニングではあるものの、マラソン大会などのロードレースとはまた違うトラックレース独特の緊張感がある。距離が短いこと、また集団が横長でなく縦長となるので自身の目標に合わせた位置取りなども大切となることからスタート時の緊張感はロードレースよりも強く感じる。
半分は恐怖感のような、半分はチャレンジ精神からくる高揚感のようなものがこの緊張感を生み出す。自分の力を出し切ろうとすれば足の速さに関係なく苦しさは避けられない。その苦しさに耐えれるかどうか今の緊張感の大部分を生み出すのはこの点だ。
学生時代までは目標の記録、順位を達成できるかどうかが緊張に大きな影響を与えていたと思う。結果の点で評価されるなら仕方ない部分もある。
しかし今は凡走しようが快走しようが、目標を達成しようがしまいが、良くも悪くも何かあるわけではない。
それでもレースに挑戦しようとする自分がいる。
レースに申し込んだ時は楽しみな部分も多い。レース三日前に行った練習では動きもよく一段とレースを迎えるのが楽しみになる。今の力を試してみたい欲というものだろうか。
でレース当日の朝の気分はどんなものかというと
「あぁー、申し込まなきゃよかった。余計なことをしてしまった」
びっくりする具合の弱気な気分だ。
ましてや逃げても何も問題ないし、誰も気づきやしないこの状況。
ただ内面で起きる色んな心境の変化を感じれるのも何かにチャレンジしようとするからであって、このような弱気な自分との葛藤も含めチャレンジの価値なのかもしれない。
目標の大会に向けた準備を始めるといい練習をした日(想定したよりも余裕を感じたり、速く走れた日)には自信がみなぎり、悪い練習の日(想定したよりも走れない、途中で失速、やめるなどした日)には無限の弱気が内面から溢れようとする。
この内面のブレも少なくなり、いい練習の日も悪い練習の日も自身を知る指標として捉えれるようになってきたのは最近だ。少なくなっただけであって、なくなったわけではないが。
このようなことがランニングを通して精神面の進歩を感じる喜びでもある。
苦しさと向き合うのは練習でもできなくはない。
どれだけ苦しさの中に身を置くことができるかには内面の準備が大切なのは間違いないが外的な要因も役に立つ。
レースに参加し他人と競う、目標を設定することは苦しさに耐える役に立つ。苦しさに耐える時間が長いほど今まで知らなかった自分の側面を知ることできる。
「目標を達成するためにベストを尽くす」というよりは「ベストを尽くす、自分自身と向き合うために目標を設定しレースに参加する」のだろう。
号砲の合図とともに30名近いランナーが一斉にスタートを切る。
心配した接触や転倒もなく先頭から4番手の位置を確保。位置取りとしては申し分ないところだ。
最初の位置どりの後は自分の前を走るランナー、後ろのランナーに気を配る必要もある。少し気を抜いて前とのスペースを空けると後ろから割って入られる可能性がある。逆に前のランナーが遅れ始めるとすかさずに前に割って入らなければ先頭との差が広がってしまう。
ペースを落としてまた上げるのはエネルギーを使うのでできれば避けたいところだ。
しかし現実は思い通りいかないこともあり。気をつけていてもやや強引に割って入られることもある。イラッとするような局面もあるが、怒ることはペースを乱す要因になるので何があっても感情的にならないことが大切だ。
遅れそうになるランナーがいれば前にでたり、2度ほど前に割って入られたりしたが2000mを過ぎる頃には先頭の真後ろといういいポジション。
この辺りになるとペースも一定になり少し心地よさも感じられるくらいだ。
できることならこのままのペースで行ってほしい。ペース変化にはエネルギー消費が伴うので誰もが避けたいところだ。逆に誰もが避けたいからこそ誰かがペースアップを行う。これがレースというものだ。
だからレースが進むにつれ、誰かがペースに変化を起こす局面に備えないといけない。心地いいと感じられるペース、余裕を感じれているということはおそらく自分の前後のランナーも同じように感じているだろう。
レースの半分を過ぎた頃ついに後ろから上がってきたランナーがペースアップをする。
ついていくか、今の位置に止まるかのかを瞬時に判断しなければいけない。
目標を達成したければどこかでチャレンジする必要がある。安定を求めて動かなければ置いていかれることになるし、自身のベストを尽くすことから逃げることにもなりかねない。
ただ闇雲についていくのが必ず正しい判断とも言えない。難しいのはチャレンジと無謀の境界を知ることだ。そのためには自分自身を理解しておく必要がある。
このペースアップは許容範囲かそれともそれを超えているのか。
「許容範囲だ。行け」
内面の弱気を抑え込み先頭についていく。
ペースアップから約1周ほど過ぎると、臀部の奥にジリジリとした熱感を感じ、力が入りにくくなり始める。
予定よりも早い地点で増す疲労感に弱気な自分がまた顔をだす。
「あぁ、やばいかも。少しペース落とそうかな」
「ここで離れたらすぐ後ろに追いつかれるぞ。ついてる方が楽だ。粘れ」
このように苦しい局面では何度も弱気な自分との葛藤が行われる。
少し先頭との間が空いて、また自身を鼓舞して追いつく。
残り1000m。先頭がペースを少し上げて差を広げられる。
なんとか離されないように粘る。ジリジリと開いていく差。
この苦しい局面でそれでも粘る理由をいくつ持てるかは役にたつ。
目標の記録、順位、これらが手の届きそうな位置にあることは終盤の局面で後押ししてくれる。
目標の順位があったわけではないし、記録会なのでトップ3に表彰があるわけでもない。ただ誰でも順位が下がるのはいい気分でもない。まして2位というはっきりと今の順位がわかっている場合はだ。
そして目標の記録は15分50秒。4000mの通過が12分41秒。最後の1キロを3分8秒で走らないといけない。ペース的には少しそれよりも遅いがまだ頑張り次第では手の届くタイムだ。
15分50秒という記録は何か特別な意味があるわけではない。自己ベストからも1分半近く遅いし、何かの大会に必要な記録でもない。
単に練習の現状からすると頑張れば出せると踏んで設定した目標だ。
ベストを尽くすための目標タイム。ここを適切に設定できれば終盤の粘りに役に立つ。
ペースがまた落ちているのが分かるが残り一周の鐘が鳴るともう一度力を振り絞ってのペースアップ。
先頭との差は縮まらないがそれでも目標のタイムは達成したい。
思ったよりペースは上がらず、ゴール手前で3番手のランナーに抜かされる。
タイムは15分51秒。目標にわずか及ばず。
まずは苦しさからの解放で一安心。呼吸も落ち着き少しレースを振り返る。
タイムに関しては残念ではあるが終わってみればそこまでのこだわりはない。
先頭から離された時の諦めが早かったなと言うのは内面の弱さかなと。ただペースが上がった時に思い切って踏み込んでいけたのは先月よりも進歩したところかな。
そんなことを考えながら荷物の場所へ戻る。
どの点で自分は良くなったのか。進歩したのか。
ゴール後の考える時間。ここはベストを尽くそうとしないと経験できない部分かもしれない。
結果を求めるには賛否両論がある。「結果は大事」という人もいれば「結果なんか気にせず楽しんで」という人もいる。
これは難しいところだ。
目標を設定し結果を求めることはベストを尽くすことに役に立つ。ただ結果を全てのように扱うと良くも悪くも結果で感情が左右されやすい。
喜びや悔しさで感情がいっぱいになると考える時間を失いかねない。
「思ったほど良くはないが、〇〇の点で良くなっている」
どの点で自分は進歩したのかを考える時間。それにより今後どうするかを考える時間でもある。
「いい本は読み終わった後に読み手を考えさせる」
どこかで読んだことのあるこのフレーズ。
いいレースもまた終わった後に色々と考えさせることかもしれない。
レースのためのトレーニングと思っていたが、今もなぜトレーニングをするのか考えると逆のように思えてくる。
トレーニングを取り入れた日々を楽しむ。その役立つのがレースへの参加なのかもしれない。
終わった後に考える時間をもたらしてくれる。そんな経験をくれるのが今の自分にとってのレース参加だと思う。