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ランニングの苦しみと楽しさ

短距離走、長距離走、サッカー、体操、ライフセービングと違うスポーツの経歴を持つメンバーでランニングを行いました。
ある程度体力のある人ならゆっくりのランニングを苦になる負荷ではありません。会話をしながらランニングをする、これもまた楽しみの一つです。
「会話をしながら苦なく走る」、聞こえはよく、これこそが走ることを楽しむ一番の方法なのかなと感じたこともあります。
なので代々木公園内を約4kmのジョギングだけで終わらせる方が、その後に300m×4本、150m,120m,100mを行うよりも楽しいランニングのように思えます。
しかし人間とは不思議なもので、躊躇う人もいるものの、最終的には後者を選んでしまいます。
記録向上を目指すための練習でもないのに、なんでわざわざ苦しい方を選ぶのか?
楽しさと苦しさの矛盾点です。

ギリシャ神話には人間界に苦しみが訪れたお話があります。
黄金時代と呼ばれる世界は気候は年中温暖で過ごしやすく、争いごともなければ、年を取ることもない、病気もない、素晴らしい世界があったようです。
そこで暮らす巨人のエピメテウスに、神々からパンドラという少女が連れられてきました。
顔立ちのいい、美しい少女の存在はエピメテウスが寂しい思いをしないでいいようにという神々からの贈りもだったといいます。
その後は重たい箱が神々から送られてきました。
街を離れた兄のプロメテウスから「神々の贈り物は受け取ってはならない」という忠告を受けていたエピメテウスはもうそんなことは気にしなくてもいいのではと考えていました。
エピメテウスが留守の間にパンドラは神々からの贈り物である箱が気になり、その箱を少しだけ開けてしまいました。
すると箱の中から飛び出してきた生物がたちまち人間の世界に広がり、人々に「苦しみ」を与え出しました。安定した気候は失われ、人間は病気までも経験するようになりました。
箱の中に込められた「苦しみ」という神々からの人間への贈り物。
とんでもないことをしてしまったと思ったパンドラとエピメテウスは涙が止まりません。しかしまだ箱の中に何か残っていることに気づきます。パンドラが再び箱を開けるとその中からは「希望」が飛び出してきました。
飛び出した希望は苦しみで悩み人々をなぐさめてます。
神々から人間に「苦しみ」という贈り物が贈られ、それと同時に「希望」も贈られました。

インターバル走を開始すると終わりの本数までを自然とカウントしだします。
途中から呼吸が上がり苦しさを感じるほど、次のコーナーまで、〇〇本目までとターゲットを作り、一つの心の中の関門をクリアすると終わりまでの希望が見えてきます。
当然このような希望の感じ方は苦しみがなければ感じることができません。楽しく会話をするジョギングからは得ることの難しい感情です。(もちろんゆっくりでも距離が長いとまた違った苦しみが訪れますが)
「よし半分終わり」「あと一本」インターバル走を経験したことがある人はこんな言葉を聞いたり、また心の中で叫ぶこともあるのではないでしょうか。
その時の表情は苦しい中でも希望に満ちているように思えます。
何より練習後の爽快感は素晴らしいもので、少し興奮気味になるとその後は自然と会話が弾みます。
普段は人見知りで社交的ではない性格の私でもこのようにランニングを通して不思議と会話が弾みます。
指導の場でも一番相手が話してくれるのはダウンジョグの時なのかなと思います。
もちろん苦しみならなんでもというわけではありません。練習が拷問のようになれば、身の丈に合わない強度になれば自信喪失に繋がり、苦しみの後に失望がやってくることもあります。
私自身も学生時代に楽しみ、希望の見出せない苦しさが続いた時期が多くありました。
その時は「苦しまないといけない」という練習本来の目的がズレだし、適切でない負荷がかかり出した時です。
苦しむことが目的にならず、楽しさのスパイスとして苦しみを必要なものと考えるといいかもしれません。

適度な苦しみを乗り越えると、「次はこうしたらいいのじゃないか」という希望が込められた疑問、興味が芽生えるように感じます。これは記録向上に向けてもそうですが、みんなで楽しむための練習という案でも同じです。いい練習とは「やっと終わった」ではなく次に向けたそれぞれの興味、考えが出てくる場のように感じます。

走力向上の目的だけでなく、楽しみをもたらす役目としても、ちょっと苦しいランニングは役立つと思います。
ランニングを習慣化、継続する上でも時々「ちょっと苦しい」を組み込んではどうでしょうか。


日常からの学び、ランニング情報を伝えていきたいと思います。次の活動を広げるためにいいなと思った方サポートいただけるとありがたいです。。