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いろんなことができるということ

テストロテンが体を満たしている。

新しい案件の顔合わせをした。そのうちの一人が「幅広くいろいろさせてもらっています」と言っていた。違和感があった。何が違和感なのかわからなくて昔読んだ本のメモを見たけど何も書いていなかった。会議が終わってから30分ほど経ってもわからないまま考えを文字に起こそうとしている。

まず最初に思いついたのは自分を大きく見せようとしている人の態度だと感じた。孔雀が羽を広げる。カワセミが首を高く上げる。ヤギが後ろ足だけで立つ。犬が牙を見せる。自分を相手に大きく見せるとき前提として好戦的な状態にある。その背景には戦うことを求められている場にいるということがある。ここでは私を大きく見せたいと強く考えていると人は自分を大きく見せようとするんではないかと思う。ラブラドールレトリバーがチワワを前にして眉間にシワを寄せることはない。自分を大きく見せる人が弱くあるにも関わらず、強く見せているその姿が滑稽に見えたのだと思う。

次に、無知だとも思った。自分がいろいろできると言ってしまうことは自分のできないことに目がいっていないことの現れだ。自分はあれもできるこれもできるとできることを一生懸命言っているときに自分のできていないことを言葉にすることに頭を使っていない。自分たちが仕事で苦しむときのなかに関係者の無知に依るものが少なくない。自分ができないことを、自分たちができないことを無視して進み始めて、進めていく中でも自分が無知でないかと顧みないことが多い。自分のできないことは他にないのかと考えることができない人ができるといっているのがやはり滑稽だった。

助け合いの余地をなくしているようにも思った。私は全てのことができるのだという態度はともに仕事をする人たちの居場所を奪う。あなたはこれをお願いしますということをしないと人は居場所がない。小さい子どもと買い物に出かけるときに小さい袋に菓子を詰めたものをもたせることでそれぞれに役割がある。でも、ある程度頭が回るようになるとそれが茶番であることに気づく。だからこそ、茶番ではなく人に役割を与えるために自分を大きく見せてはいけない。万能な人がいる前提にはなるが、自分ができることがあったとしても私はこれしかできないのであなたに助けてもらいますという態度が人に対して必要なのではないかと思う。

専門家になる勇気の欠如も覚えた。なんでもできるは何にもできない。ただ、技術や知識をてんこ盛りにした人間は手を広げることに必死になって目的を見失っているように思える。専門家になったとしても、隣接する分野の人達とやり取りをするために知識を広げていく必要がある。だから、あれもこれも知っているようになることは専門家であるか否かにかかわらず求められることになる。それでも自分は広く知識を持つことで自分の居場所を確保しようとする人は深掘りをすることができないままに、それが勇気のなさに依ってできないままに仕事をするのだと思う。その人を私は信頼できない。

ここまでまとまりのない考えを書いて違和感の正体に気づいた。彼のその言葉で彼と仕事をすることが怖くなったのだと思う。どんな人と仕事をしていても緊張感を保つ必要はあるなと思う。誰もが不完全なのだからその人の不完全さに注意を払って助け合う必要がある。人の良いところばかり見ていてもその人を助けることはできないのだから。違和感の正体は彼と助け合える関係が築き始められた感覚だったのかもしれない。

あるいは自分が人をけなさないといけない心情なのかもしれない。怒りを持たずに生きていきたい。

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