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獲得と克服

二項対立がいかに馬鹿げていることは知っているつもりだ。何かであるか何かでないかなのかそんな簡単な話で世界を表せるわけはない。それでも立ち止まって頭を抱えて、爪を噛むだとか地面を蹴るだとかするくらいなら頭を止めない方が少しだけ賢い気がする。

長男で末っ子として生まれて姉たちよりも常に劣ってる状態で始まったと思っている。算数も国語も姉よりできなかった。絵を描いても走っても姉より劣っていた。それは自分の方が小さいからだとわかっていたけど、中高生になって体が姉よりも大きくなるにつれて音楽や服の趣味での幼さに萎縮した記憶もある。

いわゆる大人になって、年齢というより生活がきょうだいから離れた時に少し忘れていろんなことに取り組んだ結果、気にならなくなった。お金や自分なりの自信が得られたのかと思う。それでもできない自分はずっと自分の中にいる。

きょうだいだけではなく、少年サッカーのチームメンバーにも常に劣等感があった。リフティングができなかった。みんなが100回できる時に10回もできなかった。中学の時のチームで1000回できないと試合に出られなかった。1年の夏に地方の中学の葉桜の下でできたのを覚えている。高校の夏には3000回くらいできるようになっていた。それでも、試合で活躍することはできなかった。自分が何かをしなければならない瞬間の連続のスポーツは自分を常に焦らせていた。そこにもできない自分がいた。

働き始めてプログラミングの技術はなかったわけではなかった。仕事においてできないことは力を抜くこと、こだわらないことをすることだった。ずっとできなかった。画像を作れば終わる仕事を画像を生成するプログラムを作っていた。気に入らないプログラムは1から作り直していた。仕事以外で何度も0から作ることを練習しながら、作るこだわりの発揮の仕方やシステム全体ではなく、自分の作業の評価ができるようになった。それてできないことはある。自分の上に立つ人間への評価の厳しさを捨てられない。人の上に立つ人に技術や知識、人徳だの粋などを求めている。だから人と働けないままにある。

人付き合いについてもここまでと同じくらい怒りや劣等感があると思う。ただ、言葉にならない。きっとまだまだ消化できていないのだと思う。人が好きだけど、人がとても嫌いなままここまで来ている。

獲得と克服について最近よく考える。獲得も克服も正の方向の状態変化ではある。そこは間違いない。それなのに呼び名が違う言葉が自分の頭にずっと残る。きっと皆が元々できないことができるようになることが獲得なのだと思う。そして、克服は人によってはできるようにならなくてもいいことをできるようになることを強いられた人ができるようになることなのだと思う。

そして、自分は克服しなければいけないことがたくさんあるように思っている。無視してしまえばいいこの克服の対象がなぜ自分にはあるのかを考えたい。無視するのかしないのか、克服するのかどうかについて考えたい。あと10年くらいで明らかになればいいなと思う。

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