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朝9時に出社することができない人

銭湯に行くために借りた車を返した帰りに朝ごはんのパンを買いにスーパーに寄った。どこかで作られて袋に入ったものではなくて、スーパーの中で焼かれるパンが買いたかったのにまだ並んでいなかったり。売り場の横の扉から奥でパンを焼いている人たちの姿が見えたから少し待とうと思って上の階のカフェでコーヒーを頼んだ。帰ってからまたコーヒーを飲むつもりだったから牛乳が入っているものにした。座った席から見える席に座る30代の女性がニーチェの本を読んでいた。

エーリッヒ・フロムの愛するということを読みながら考えた。

というより、車を返してからの道でも考えていた。きっと出社する人たちの姿を見たからだと思う。あの人たちは出社ができる。出社は人に行動を決定されることだと思う。さらにそれは雨だから運動会ができないとか風邪を引いたから遠足に行けないのようなしたいのにできないことではなくて、歳を取ればいつか死ぬとか100℃になれば水が蒸気に変わるのような抗えないものとして存在する決定になっている。

子どもの時にはサッカー選手になれると思っていた。あるいは世界を救う革命家になれると思っていた。大人になるとそれらが無理だと気づいて諦められた。その流れで出社を諦められたらよかった。それはしなければいけないこと、呼吸、睡眠、食事、出社を違和感なく並べられたらよかった。

それを諦めるためには痛みが強すぎる。人に会う時に生まれる痛みが強すぎる。他人の言葉や目線が苦しい。私の場合は個人としては街を歩く時の苦しみは少ない。変な服装でも嫌ではない。イヤホンをつけながら少し歌うことすらできる。しかし、組織の一員として何かしらの建物にいること、いや組織の一員として時間を過ごすことがとても苦痛になる。私の一挙手一投足がその組織の意思に沿っているかどうかを考えてしまう。

組織とは超固体のようであるべきだと思う。蟻が一番理解しやすい。人は表面では個性を最大限に伸ばしているように見せかけても、週末の過ごし方や仕事に関する考えを揃えようとする。同じ方向を向いた力が強いことは分かる。けれど、同じ方向を向いていないものを向いていることにするための力を使っている。

私たちは私たちの会社のために働けているということにする。そんな嘘を抱えて今後も生きていくのだと思うだけで苛立ちが溢れてくる。それを抑えようとすると何も感じないように心を殺す必要がある。何も感じないようにする。生きることをしていないことにする。感じることをしていないことにする。そうすると食べることもやめてしまい、眠ることもやめてしまいそうになる。

そこまで苦しくない人たちは今日も電車に乗って会社に行く。誰かに言われた何のためのことかわからない仕事をわかったような顔をしてする。そして、それを楽しんでいるようにして過ごす。それができる人はそれをしないで生きている人をみて無関心な表情と軽薄な語彙で憧れや羨ましさを表してくる。

それを受け入れている方がまだましだ。

人はひとつの独立した存在であり、人生は短い。人は自分の意志とはかかわりなく生まれ、自分の意志に反して死んでいく。愛する人よりも先に死ぬかもしれないし、愛する人のほうが先に死ぬかもしれない。人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ、と。こうしたことすべてのせいで、人間の孤立無援な生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいる他の人びととなんらかの形で接触しないかぎり、人は正気を失ってしまうだろう。

鈴木晶 訳.『愛するということ』紀伊國屋書店 2020年

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