過渡期の言葉が未来の自分を救う

過渡期に言葉としてその心の動きを残しておくのは大切なこと。それはコロナのように突如もたらされることもあるし、就職のタイミングや超個人的な意識でも起きる。心が動いているときの熱量は時間が経つにつれ慣れて忘れてしまう。そのときのことを質感を伴って思い起こすことは不可能に近い。それが自分の原動力であるはずなのに。変化していく心を言葉にするのは難しい。誰にも完璧には共有できないものであるのは当然のこととして、自分でもそもそもよくわかっていない。でもそれが言葉にできなければ、場合によっては一生わからないままになる。

ヤマモに就職を決めたその日くらいに書いたnote。もう1年以上前になるのか。時間が経つのを早く感じるのは歳をとっている証拠で、ある意味この1年は"歳をとった澤口1年目"みたいな感じ。これって社会人1年目の人はみんな通る感情なのかな。

「いつの間にか自分がなりたくなかった大人になっている」みたいな話はよく聞くし、だいたい"なりたい姿"なんかより"なってたまるか像"の方が鮮明で、その違和感を道標にすることでいつか知らぬ間に理想に辿り着く。かも。

関わるシステムが増えるほどシステムに合わせて自分を変形させている。noteで書いてる時点でなんかエモめな感じで書きたくなるもん、腹立つよな。

つまりは無垢でいたい。自由ともいうのか。無垢でいるためにお金や就職はノイズでしかなく、それといかに距離をとって生きていくかばかり考えていた学生時代。しかし何も学ばずに無垢を貫けばそれはテロリストと同じなのかもしれない。何より自分に好奇心と好き嫌いがある限り新しい刺激を求め、知った以上は知らなかった頃には戻れない。そして気付けば「いつの間にか自分がなりたくなかった大人になっている」のである。

そのとき自分の無垢さをもう一度思い出させてくれるのは、過去の自分でしかない。インターネットのおかげで知ることが超簡単になった分、わかっている風やできてる風も爆増。自戒も込めて。頭ではわかっているができないことの方が実は多いことを認めるところがスタートラインで、それ以降は細胞に覚えさせるしかない。覚えさせるには細胞ごとダイブするのが手っ取り早い。

上司にアウトプットしろと言われ続けてきたけど何も出さずに早1年半。春とコロナで悶々と消化不良になっていた自分に、今以上に悶々と消化不良な無垢な自分がいろいろ教えてくれた。なるほど、だからアウトプットしないといけないってことね!今更ながら細胞レベルで認識。

と、言いつつコロナの話題になってから2ヶ月、緊急事態宣言から1ヶ月も経ち、beforeコロナ→withコロナ・ニューノーマルという過渡期の中で何もアウトプットできていない自分。

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2020年2月にギリギリで開催されたライブの中で、キャンセルになったアーティストの代わりとして急遽別のアーティストの参加が決まった。ライブ2日前のオファーに北欧から駆けつけただけでも驚きなのにライブの最中に長文の手紙を読み始めた。コロナによる不安定な日々に対するメッセージだった。英語だったからほぼ何もわかんないけど。でもだいたい伝わった。

自分の心の声に常に耳を傾けて、その動きを呼吸をするように表現できるようになるまでにはまだまだ時間がかかりそう。でも続ける。

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