能のない大人は子を洗脳する
何が正しいとかわからないから
純粋に身近な存在を信じた
たとえそれが少し偏った教育であっても
私の両親は統一教会を信仰していた。宗教を通して出会い結婚した。教会に行ったり教典を読んだりそれらしいことは幼いときに数回あった程度でほぼ無縁の生活だった。幸い日常には馴染んでいない。きっと一般的な普通の生活ができていたのだと思う。ただ、少し偏りのあることを除いて。
母は教育に熱心だった。兄弟揃って幼稚園から私立に通わせてくれた。多額の借金をして。なんとしても私立の小学校に通わせたかった。その為に英才教育の塾を何個も通うことになった。こうして物心つく前からわけのわからない教育を受けた。
洗脳教育
その塾で記憶にあるのは""速読""だ。まともに日本語も知らない3才から小学校低学年まで通っていた思う。確かクラスには30,40人ほど歳が近い子供がいた。オールバックに髪をまとめた学長らしきおばさんが「始め!!」と声を高々にして叫ぶ。するとうちわを仰ぐような速度でバババッとページを捲って理解するのだ。「え?!すごい!はやい!どうして!!」と思っていた。周りの子達がなぜできるのか不思議だった。私は異様な雰囲気に飲まれることになる。同じようにバババッっとページを捲りざる負えなかった。
2,3分すると学長が「辞め!!」と叫ぶ。そして白紙が全員に配られた。読んだ本の内容をできるだけ細かく書くらしい。
「どうしよう…」
同調圧力に負けた。皆と同じようにやれば速読ができるのではと淡い期待をしていたがそんな甘くない。カリカリとえんぴつの書く音があちこちから聞こえてくる。
「たけし君が」
と私は書き始める。たけし君が出てきたような気がする。いや、ただし君だったかな。たけみちかも。主人公かどうかもわからない登場人物の名前で名前で迷っているのは多分私だけだろう。とりあえず、たけ○君が何かをした物語だ。と自分に言い聞かせてそれっぽい文章を書いた。
見様見真似で周りに合わせようと必死だった。余白の有り余った紙を見て心底恥ずかしいと思った。周りを見ると皆が余すことなく書いていた。ついでに妙な劣等感を覚えた。
そんな講座が何個かあり、私は週3回ぐらいのペースで通っていた。羞恥心と劣等感から抜け出せずストレスで行きたくなかったのだが、親はなんとしても行かせようと泣いている私を無視して車で送迎してくれた。暗い夜道を車で走らせる。母は仕事おわりにわざわざ塾に通わせてくれるのだ。熱心さが滲み出る。家族団欒の時間はないが。全ては英才教育の時間に注がれる。抵抗できない私は目的地につくまで自分の髪を引きちぎって自傷行為を始めた。
「今日も速読だ……また恥ずかしい思いするのやだな。やったフリでもしとこ」それっぽい感じを出して周りの目を掻い潜れば少しは楽になれると思った。
要は私はできてますよ感を出せればいい。まずは猛スピードでページを捲る。当然文字なんで読めやしない。もうどうでもいい。本の内容も速読の意味も。辞めの合図とともに本をパタリと閉じ、目を瞑りえんぴつを空中で動かす。忘れないようにしているようなそれっぽい動作で待機だ。私はいま頭で内容を整理してますよ感が出てると信じて。
そして白紙が配られたと同時に、わざとえんぴつの音を立てて文章を書く。内容なんてなんでも良い。主人公ぽい名前の人がそれっぽい出会いをしてそれっぽい結末を迎える。完全創作だ。
事が早く進むと時間があまる。そんな時は書き直しテクがある。「なんかこれ字のバランスがなぁ…」と思う箇所を探し出し消しゴムで一生懸命に消す。できるだけ時間をかけて。そして書き直す。そんなことをしていると終了の合図だ。
満足。
気が楽な状態で講座が終わった。羞恥心や劣等感は不思議と和らいだ。速読の意味はまっったくないが大切なのは今だ。最初のあたふたしてた頃と比べ、今の私は堂々としていた。周りの目線も痛くなかった。クラスに馴染めたような気がした。
そして私はいつの間にか同調圧力をする側に立っていた。
今になって思うのはこれは速読の講座ではない。日本人特有の流されやすさ。意志の弱いものは洗脳されやすいというメタメッセージなのだ。いやぁ…深い…3才から始める英才教育がこれか〜。わかるかボケ。
そして私は速読から始まる洗脳をされた。
おしまい。
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