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『<私>を取り戻す哲学』岩内章太郎著 読了

<概要>
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という格率を手始めに、<私>の不可疑性と有限性を意識化することで、自分はもちろん他者との関係も取り戻せるかもしれないと提言した竹田青嗣門下の哲学者の著作。

なお本書におけるカッコ付きの<私>とは、

私(岩内章太郎)とは区別するために、それぞれにとっての自分自身を〈私〉と表記することにしよう。

本書「まえがき」

とのこと。


<コメント>
著者の最新作(2023年出版)で、これまでの『新しい哲学の教科書『<普遍性>をつくる哲学』に続き、本書で計3冊目。

著者はマルクス・ガブリエルなどのポストモダン思想に続く最新の哲学「現代実在論」の研究者でかつ竹田青嗣門下なので現象学の研究者でもある、という立ち位置。原則として竹田現象学がベースなんですが、現代実在論のエッセンスも取り入れているところが面白いところ。

さて、本書は昨今のSNS中心としたサイバースペースが幅をきかせる現代日本社会において、著者なりの「私たちの生きる指針」みたいなものを提示した著作。

⒈<私>を取り戻す哲学

結論的には、

他者視点ではなく自己視点に立ち返って物事をみる」ところから始めてみよう。そうすると必ず自分の意識のみが唯一絶対なものとして認識できるし、だからこそ自分自身の弱さや有限性も実感できる。そうすれば「わからないことはわからない」として自覚できるし、他者との関係も自分たちの弱さを自覚することで、お互いがいたわって補い合って生きていくことができる、

という感じでしょうか。

「他人がどうこう」を気にする前に、まず自分に矢印を向けて、自分は本当は何に納得し、何に納得できないのか、何に喜びを感じ、何に辛さを感じるのか、自分にもう一度立ち返って自問自答すればよいということか。

この辺りは「ルサンチマン(他者への妬みや反感)みたいに他者を前提にした生き方はやめて、もっと自分自身に矢印を向けよう」というニーチェ思想にも通じる考え方。

他人や他人の存在に振り回されず、もっと自分自身に矢印を向けて現実世界でもサイバースペースでも生きていけばよい。

確かに我々は、SNSやYahoo!ニュースみたいなもので、世の中の「他人のああすべき、こうすべき」という物語にずっとどっぷり浸かってしまっているので、どうしても「我にかえる」ことがおろそかになっているような気がします。

私の場合は、毎日ピラティスをすることで自分の身体感覚や脳感覚を意識化するようにしていますが、ほかには坐禅をくんだり、瞑想したり、ランニングしたり、プールで泳いだり、できれば毎日、何かしら自分自身に向き合う時間を作るなど「自分自身を見つめてみる作業」って必要なのかも知れません。

もちろん自分自身を見つめ直し、自分の気持ちを再確認したうえでの「他者視点の生き方」、例えば「認められたい、注目されたい、尊敬されたい、一目置かれたい、一番になりたい、偉くなりたい」というのは、もちろん「あり」ではないかと思います。

さていつも通り、以下興味深かった点を整理。

⒉新しい時代は善きことを求めている

現代日本社会は、戦後の高度成長を経て経済的に豊かな国になり、そして労働時間も時短が進むなど、歴史上はじめて日本人(日本列島に住む人間)の大半は、暇を持て余すことになったといいます。

持て余した暇をつぶすために私たちは「動物化」つまり自己満足の世界に向かいます。推し活なんかがその典型で「自分が夢中になれるものを見つけて暇をつぶしているのが現代人」というわけです。私ならサッカー・ボクシング観戦に自転車に食べ歩きに国内外の旅行といったところか。

ところが最近の20代や10代の若者を観察すると、新しい方向性が生まれつつあるという。

それが「善への意志」。

これまでの私たち日本人の多くは、自己満の世界にどっぷり浸って暇をつぶしていたのですが、その一方で「社会を善きものにしていこう」という利他主義のベクトルが強くなりつつある、ということ。

就活生を対象にした調査をネットでみてみると、以下の通りで「善への意志」を重視する学生は、上から2番目の「仕事のやりがい貫徹タイプ」に含まれそうで、そんなに多くはないように感じますが、実際のところはどうなんでしょうか。

パーソル研究所「現在の就活生・データから見る5つのタイプ」2019年

ちなみに私の周りの20代以下の知り合いは依然として「推し活」どっぷりの若者もいれば、社会貢献に目を向けている学生も多く、なんともいえません。

最近意外にびっくりしたのは参加している「放課後児童クラブ」ボランティアでの高校生・大学生ボランティアの多さ。この辺りは著者のいう「善への意志」が若者に広がりつつある、一つの現象なのかも知れません。

⒊パッケージ化された善に警戒せよ

パッケージ化された善とは、外部から示された善の指針を無反省にかつありがたく受け入れて、いいことをしている(思っている)気分になってしまう、という類いの善。

善のパッケージ化によって、安易に私たちが特定の価値観を受け入れてしまうと、民主主義が衆愚政治(ポピュリズム)に陥って独裁を生む、というナチスのような悪夢を再びもたらす可能性がある、と著者は警鐘を鳴らしています。

ナチスの事例で著者が取り上げている悪夢は、

全体主義の担い手は、私たちと同じような境遇を生きる「普通の人びと」だった。

本書第1章「善のパッケージに注意せよ」より

という事実。ユダヤ人を大量虐殺したその直接的な殺人者は、狂気の世界で同調圧力に飲み込まれた普通の人びとだったという事実です。

大量虐殺について考察する上で、時間の欠如と同じくらい重要なことは、順応への圧力であった。ーそれは軍服を着た兵士と僚友との根本的な一体感であり、一歩前に出ることによって集団から自分が切り離されたくないという強い衝動である(クリストファー・R・ブラウニング『増補 普通の人びと』、126ー127頁)

同上

2度とこのような悲劇を起こさないためには、善のパッケージ化に安易に飛び付かず、自分の頭で考えて行動するということ。

具体的な行動や判断の動機は、あくまで自分自身から生まれてくるものであるべきなのだ。善のパッケージを手軽に買うのではなく、それがどうして「よい」と言えるのかを、<私>の体験の内側から取り出さなければならない。

同上

この辺りは私も完全に同感ではあるものの、人間の性として善のパッケージがもたらす同調圧力にどっぷり浸かるのは、人間が生き残ってきた上ので進化の結果でもあるので、ここから離れるのはなかなか難しいところです(詳細は以下参照)。

むしろ私たちは、同調圧力にどっぷり浸かりつつも、同調圧力が保有するその物語(=虚構:詳細は後述)を意識化しつつ、自分の思考からもたらされる納得感を伴っていればよい、というのが落とし所かもしれません。

⒋「新デカルト主義」宣言

著者は、自分を取り戻すために私たちは新デカルト主義を採用すべき、と提言します。新デカルト主義とは、

<私>の絶対性と有限性を肯定し、一切を主観の内側から建てようとする立場

本書第2章「新デカルト主義」宣言

<私>は、どこまでいっても<私>の意識から出ることはできません。そして唯一私たちが疑い得ないのは、この<私>のまさに今<私>自身に流れている意識。

世の中を徘徊する様々な物語をそのまま盲目的に受け入れるのではなく、その物語を自分自身のアタマで再度咀嚼し、自分の言葉で言語化する作業をしてみましょう、ということではないかと思います。

そうやって世の中の価値観を主体化した上で受け入れることができれば、自分と自分の所属する社会をより真っ当な方向に導くことができるかも知れない、ということでしょう。

⒌二つの虚構の類型:独断主義と相対主義

歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリのベストセラー『サピエンス全史 上』によれば、7−3万年前に人類の進化、つまり「認知革命」によって人類は文明社会を誕生させることができた、といいます(『サピエンス全史』34頁)。

その認知革命がもたらしたのが「虚構」。見ず知らずの人間集団の塊である私たち人間社会が成立するためには何らかの「虚構」が必要なのです。具体的には虚構とは神話・宗教や哲学などが紡ぐ物語のこと。

虚構のおかげで、私たちはたんに物事を想像するだけでなく、集団でそうできるようになった。聖書の天地創造の物語や、オーストラリア先住民の「夢の時代」の神話、近代国家の国民主義の神話のような、共通の神話を私たちは紡ぎ出すことができる。そのような神話は、大勢で柔軟に協力するという空前の能力をサピエンスに与える。

『サピエンス全史 上』40頁

本書によれば、ハラリのいう虚構は、ヨーロッパ世界ではずっと独断主義相対主義の戦いの歴史でもあったといいます。

独断主義とは「何らかの絶対的な正しさがある」という考え方のことで具体的には各地方の神話やキリスト教などの宗教、プラトン哲学、カントやヘーゲルなどの近代哲学に加え、マルクス・ガブリエルやカンタン・メイヤスーなどの現代実在論。いわゆる竹田青嗣のいう「本体論」のことです(詳細は以下)。

独断主義の問題は、特定の虚構を絶対化することで他の虚構を排除すること。キリスト教だけが絶対だとして、異教徒を殲滅するような中世西欧的価値観です。現代で典型的なのは米国の共和党支持者と民主党支持者の相容れない分断の状況。

一方の相対主義とは、古代ギリシアのソフィストや現代のポストモダン思想の考え方。世の中に絶対はなく「なんでもあり」の世界が私たちの生きるこの世の世界、という考え方。

そして相対主義の問題は、普遍的価値でさえも相対化してしまうこと。

現代の私たちが信じる虚構は何といっても普遍的価値です。普遍的価値とは「自由、民主主義、基本的人権、 法の支配、市場経済」のこと。これに「科学」を加えてもいいかもしれません。つまり現代の普遍的価値とは啓蒙主義のことです。

著者の考えからちょっと飛躍すれば、現代の普遍的価値は<私>から出発して、社会を構成する複数の<私>が普遍的な合意(=間主観的合意)を目指した、その先に見えるもののひとつのようにも思えます。竹田青嗣いうところの現代社会における「普遍的確信」に相当する虚構です。

ここまで著者は主張していませんが、結局のところ、私たちはお互いの虚構の違いは違いとして受け入れるしかなく、社会を構成する全員でその違いの存在を法の支配に基づいて守っていくしかないのでは、と思います。

そしてその虚構は、受け売りの虚構(=善のパッケージ)ではなく、<私>から出発する虚構であれば、なおさら良い。

そうすれば、もしかしたら<私>と複数の<私>により多くの幸福をもたらすことができるかもしれません。

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