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「判断力批判:序論」に基づくカント哲学の図解

ドイツの哲学者カントに関しては、哲学勉強には必須の哲学者らしく、数年後ぐらいに取り組もうと思っていたのですが、現在受講している講義の課題として「判断力批判」の序論の箇所が取り上げられたので、その全体像の図解を試みました。

同じ課題でヘーゲルも取り上げられたのですが、双方とも一般に我々が使っている言葉の意味と文章の意味が違っているらしく大変読みにくい。

特にヘーゲルの方は半分も理解できず。哲学者平原卓によれば、ヘーゲル語をまずは理解した上で取り組まないといけないそうですから、数年後、カントを勉強したあとぐらいにゆっくり取り組みたいと思います。

さて「判断力批判:序論」に基づくカント哲学の全体像は、おぼろげに下の図解の通りかなと思って作成してみましたが、私の理解不足もあり、間違っている点も多かろうとは思います。ただ、ざっくり掴むには、いい感じで仕上がったかなと思います。

「判断力批判」という著作は、プラトンのいう「真善美」のうち「美」を対象にした著作。その前に真善美の「真」は「純粋理性批判」で、「善」は「実践理性批判」で扱っているので、最後の「美」に関しては、本書「判断力批判」で扱うという構図。この構図をカント理解の礎とすると、わかりやすいように感じます。

そして「判断力批判:序論」では、この構図をわかりやすく(それでも至って難解ですが)、真善美の3つの領域の全体像を解説してくれています(以下書籍も参照して作図)。

まずは「真」。

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「真」とは「今自分が見ているモノが本当にそのものズバリなのかどうか」という領域。

カントによれば、例えば自分の目の前で見ているモノ=「チューリップ」

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われわれは目を使って感受し(知覚)、脳で認知(悟性)することで、現象としての「今」目の前にある「チューリップ」を認識するといいます。

見たモノそのものが、本当に何なのか(=物自体という)は、我々は「目」という感覚器官(フィルター)を使ってみているだけなので、実際のところはわかりません。でも人間は皆、同じ目と脳の機能を持っているに違いないので「それそのもの=物自体」が、皆同じように「現象」として、同じようにそうみえているに違いない、とカントはいいます。

そして我々は、いろいろなチューリップをみて、どうやら春に咲いて楕円形の花びらで上に向かって可愛らしく咲いている花だとわかって、これをまとめて(=反省的判断による概念化)、「チューリップ」と名付けました。

次に「善」。いわゆる「良い悪い」という「道徳の領域」。

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「真」の構図同様、人間は、例えば「善とは何か」の「善そのもの」は「物自体」なので認識できませんが、理性による働きは皆同じなのできっと「何が良いか悪いか」は、必ず何らかの評価として一致するに違いない(=普遍的立法の原理)とカントは考えました。

そして、道徳の領域は、自分や他者がみてきたものを集約して「これを善としよう」みたいな「自然の領域」の構図とは違い、はなから善悪の概念は究極目的として存在しているはずなので、我々が何らかの「こと」をちゃんと理性によって把握すれば、最初からこれは「いいことだ」「よくないことだ」というように、善悪の評価をつけていくことができる(規定的判断)、とカントは考えました。

ところで「自由」がなぜ道徳の領域なのかというとピンときませんが、カント的には「自由」というのは、外部にも影響されず自分の欲望にも影響されない概念だとして、道徳的世界を自由の世界と認識。

マイケル・サンデルは、カントの自由について

動物と同じように快楽を求め、苦痛を避けようとしている時の人間は、本当の意味では自由に行動していない。生理的要求と欲望の奴隷として行動しているだけだ。欲望を満たそうとしている時の行動は全て、外部から与えられたものを目的としている。この道を行くのは空腹を満たすため、あの道を行くのは渇きを癒すためだ(「これからの正義の話をしよう」より)。

と解説。

宗教的な「解脱の世界が道徳の世界」?みたいな感じでもあり、古代ギリシャ哲学の道徳観念みたいでもあり、やはり哲学者や宗教者はいつの時代でも「俗世の欲望から脱却した世界」が理想的世界(=道徳的世界)だ、というふうに解釈したがるようです。人間の魂は、本来的に善である(道徳的である)=性善説(孟子)が、身体が邪魔をしているということです。

最後に本書のテーマとなっている「美」の領域。

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美の領域を認識するのは「判断力」で、この判断力とは人間の「快・不快」を感じる能力だとカントはいいます。芸術といってもカントは「自然をみて感じる美=自然美」を芸術としているので、我々現代人が想像する芸術の領域とはちょっとその範囲が違います。

悟性が認識する自然の領域において、判断力に基づく何らかの目的に沿って「物自体」をみれば、何らかの「美」を感じることができる、というのが、この領域。

したがって、「自然の領域=真」の中で、「道徳の領域=善」の原理を流用して把握するのが「芸術の領域=美」だとして「判断力は、悟性と理性を媒介する」と「判断力批判」において全体を総括しているのです。

「美」が「善」と「真」を媒介している、と言われてしまうと全く意味不明なのですが、カント的には、以上の通りロジックを組み立てることで「善と真は美を媒介としてつながっている」と認識したわけです。したがってプラトンの真善美はカント的には「真美善」となります。

以上、あまりにも複雑で本当にわかりにくいのですが「我々は絶対的正しさを認識することはできないが、かといって何も認識できないわけではない」という「物自体」という概念は、独特の思考方法で、カントが哲学史上において絶対外せない哲学者というのも納得せざるを得ません。

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