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人間の本性を考える(中巻):スティーブン・ピンカー著 書評

<概要>
上巻で展開された「人間はブランクスレート(空白の石板)でなく遺伝的な要素も大きい」という考えは、決定論的極論を生みやすいが、むしろ遺伝的影響を正しく見据えることこそが、人間を正しく理解することに繋がり、その可能性を見出すことができると提言した中巻。

<コメント>
◼️「遺伝子」という本体論(※)の展開
進化論や脳科学が明らかにしてきた人間の本性は、そもそもこの世に普遍的真理は存在しないとした相対主義(ポストモダニズム、脱構築主義など)に対抗し、遺伝子=盲目の時計職人の基づく思考こそが人間の本性を司る普遍的真理だとして、相対主義者の言説を否定。

※本体論とは、普遍的な真理(=本体)はあるとして論理を展開する考え方。本書では盲目の時計職人としての遺伝子が本体。

相対主義者は、

心には現実を把握するためにデザインされた機構がない。心はただ、周囲の文化から言葉やイメージやステレオタイプを受動的にダウンロードすることしかできない(文化的、政治的な前提から独立した客観的態度としての「真理」などない)。

と主張していますが、ピンカーは、

心は祖先の生存と繁殖にとって重要だった現実の諸面に対しての情報を掴むために働く、誤りやすいが知的なメカニズムを進化させた

とし、心の働きは人間が外的環境に適応してきた「盲目の時計職人」の成れの果てだとの主張。したがって普遍的な心=人間の本性が、遺伝子によっておおよそ規定されていると主張。

興味深かったのは、相対主義者が事例に出す「錯視」の問題。錯視の存在から「人間の知覚は、往々にして間違えやすいので、何が真実かは人間には本当のところわからない」というのが相対主義者の考え方。

しかしピンカーに言わせれば、むしろ錯視の問題は、静止画像の寄せ集めでしかない意味のない視覚情報を、脳が意味ある構成要素に分解して対象物の性質を知覚する働きが正常に動いている証拠だとし、そのミステイク=錯視のみを取り上げて対象物を正確に認識できないというのはおかしいと主張。

これは現象学的にも同じ考え方で、人間は、ものをみることによってあらゆる情報(=ノエシスという)を編集してはじめて「その像が何か(=ノエマ)」を認識するという構造によく似ています。

◼️個人の自由意志や努力に意味はないのか
進化論的に考えると、我々は親含む先祖からもらった遺伝的形質によってある程度、性格や行動や決められており(=決定論)、自分の意志も実は自分が支配していないし、努力しても先天的能力に支配されて意味がないのでは、という恐れを懐く可能性があるといいます。

しかしピンカーによれば、これは心配に値しないとし、まずは自分の先天的特性を把握した上で自分の自由意志と行動を活用すれば、より効率的な人生を送ることができるとしています。

そして心は複数のパーツが同時並行的に稼働しているシステムだから、一方で邪悪な心を持ったとしても一方で善良な心を持った自分に気づくことができるとしています。

あとは自分がこれをどうやって制御するかだけ。何よりも大事なのは「自分を知る」ことです(本書の表現は「汝自身を知れ」)。

◼️進化論的人生の意味
進化論的思考で人生の意味を考えれば、自ずと人間の生の意味が理解できるとピンカーは主張しています。数十万年(ホモサピエンス誕生以後)もの長い時間をかけて盲目の時計職人が製作した生き物=人間ならではの生物学的本性をきちんと認識した上で生きれば、生きる意味としての喜びを実感できる人生が送れるというのは、誰もが納得せざるを得ない普遍的確信として深く納得する根拠。

もちろん世の中には進化論的思考では説明できない事象も数多くあるとは思いますが、この仮説は現時点において人間含む生き物の世界観の相当広範囲の事象を説明できる画期的な仮説ではないかと思います。

例えば道徳的感覚に関して、宗教よりも盲目の時計職人に寄り添って生きれば、本来的に備わっている倫理の論理と噛み合うはずだとし、道徳的感覚は進化によって人間含む社会的動物の本性として育まれてきたものだから、道徳的に生きることで生の喜びを得られるとしています。

生物学者ロバート・トリヴァースによれば、人間含む社会的動物には「遺伝子を共有する血縁を助ける」「社会形成によって自分の生存率を上げる」という二つの進化論的特性によって道徳的感覚を先天的に身につけているとしています。

したがって、そもそも道徳的(=利他的)行動は人間に備わったものなので、その通りに生きればきっと人生における喜びを体験できるはずです。

◼️宗教と進化論:正しさの根拠とは
一方で宗教的な生きる意味については無神論者らしく否定的で、宗教は一般に異教徒に対して徹底的に残酷であるとし、今でも一部教条主義者による暴力(自爆テロなど)は続いており、宗教が生む暴力を問題視。

一部の教条主義者除き、今はおおよそどの宗教も異教徒に寛容ではあるものの、過去のキリスト教やイスラム教などの異教徒に対する数多の凄惨な仕打ちの歴史を知れば知るほど納得はできます。

ただ私からみると、これは内集団と外集団の問題であって宗教に限った話ではありません。これこそ生物学(進化論)的特性の一要素で、人間含む社会的動物は、殆ど同じ種の間では「仲間か仲間でないか、が大事」であって、仲間でないものに対しては総じて敵対的

これは宗教に限らず、部族もムラ社会も国家も大小関わらず皆同じではないかと思います。人間集団は、その集団ごとに同じ価値観や社会的規範(=正しさ)を共有し、自分が属する社会を維持繁栄させることが自分の遺伝子の繁栄に直結するので「内集団を害する外集団は排除する」というのは極めて合理的な行動ともいえます。

我々自身に置き換えてみれば、我々自身のそれぞれの生活集団=居場所(家族や仕事場や趣味仲間など)ごとに「正しさ」があり、我々はそれをうまく使い分けて生きています。自分の行動を冷静に見つめてみれば、このことがよくわかります。

今はこの人間集団の分断が問題になっていますが、内集団と外集団を固定化せず、もっと複数並列的に柔軟に個々の人間が居場所を漂流すれば分断問題も解決の方向に向かうと思っているのですが、どうでしょう。

政治的集団ベースでは相入れなくても、文化的集団や経済的集団など、違う基準での集団単位でのノマド的漂流と言ったら良いのか。千葉雅也さん流にいえば、脱コード化するのではなく、複数のコードを同時並行的に共有しつつ漂流するといったら良いのか。

いずれにしても「何かしらの世界観に教条的に正しさを固定化してしまうのはやめておくべき」ということです。

◼️なぜ人は苦労するのか
これも進化論的に考えると実に面白い。苦労する行動ができる能力を獲得することによって、より種の生存と子孫繁栄につながっていく。それは主に人間関係(=人間集団の維持繁栄行動)においてだといいます。

決まり切った行動であれば意識的に行動せず、反射的に行動すればいいですが、イレギュラーな行動、判断が難しい行動に関しては常に頭を意識的に働かせて臨機応変に行動する必要があります。

したがって意識とは人類学者ドナルド・サイモンズによれば

予測のつかない稀な必要物をどのようにして獲得するかを考え出すために必要な神経計算の現れ。

だといいます。

そして人がなぜ苦労するのかといえば、上記の意識を活用した行動、つまり苦労を伴う行動が種の生存と繁栄にとって必要だからです。これを食生活を事例に
私たちが空腹を感じ、食べることを楽しみ、たくさんの素晴らしい味を感じる味覚を持っているのは、進化の歴史の大部分の期間、食べ物を獲得するのが大変だったから。

だとし、簡単に手に入るものには苦労は伴いません。例えば酸素。

私たちは通常、酸素に対しては、生存不可欠であるにもかかわらず、熱望や喜びや魅力を感じないが、それは得るのが難しくなかったからだ。酸素ならただ呼吸するだけで済む。

私たちがなぜ苦労するのかといえば、意識の働きを使って、苦労して獲得する必要がある機会が我々の生活(具体的には人間関係)にはあるからです。

*血縁を贔屓してしまう行動
*家族内の利害関係

など、人間関係においては個人と個人の間で利益が相反する機会が数多く無限に発生します。これらをお互いに調停しつつ、うまくやっていくためには反射的行動では無理で、意識的行動、つまり苦労を伴う行動が必要だということです。

そして苦労を伴う行動によって人間関係は維持され、より高度な環境適応能力を身につけているというわけです。恐るべし「遺伝子」です。

以上、中巻では我々の生物学的特性、人間の本性を自覚することで、より良き人生が送れるというピンカーの提言には深く同意せざるを得ません。

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