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「善とは何か? 」検証

「善とは何か?」について様々な思想家が定義しています。大きく分けて3パターンの考え方があって、

①善そのものがあって、それはこれこれである
そもそも善は、語り得ない=定義できない
③「善とはこれこれである」と問うのではなく「善はどのような構造で成立しているのか」と問うべき

という感じです。

平原卓「読まずに死ねない哲学名著50冊(以下、哲学名著)」や竹田青嗣の「欲望論第二巻」はじめ、各種著作などから拾ってみました。するとこれが結構面白い。それぞれに「なるほど」と思わせるものがあります。

① 善そのものがあって、それはこれこれである

私の考えでは、それぞれの仲間内だけの共通の善は「あり」ですが、誰もが納得する「これが善である」という普遍性はないのではと考えています。でも一旦これを信じることができれば強力な安心感を我々に与えてくれるという意味で決して否定するべきものでもありません。問題は教条的になって他人に強制することです。

◼️中世キリスト教

神の意志に従い、神がつくった世界の秩序に背くことなく、神の与えしルールに従って生きること。善を知るのは創造主たる神だけであり、人間は神の恩恵によって初めて善が何であるかを知ることができる(失念?)

*アウグスティヌス(告白)

善は神の恩恵によって初めて意志することができる。神の恩恵なくして人間は善を意志することはできない(哲学名著83頁)。

→普遍性はありませんが、揺るぎなき価値観を信じることで信者に安心感・満足感を実感させる考え方である意味羨ましいなと思います。

◼️スピノザ(エチカ)

「善」とは、自己保存のために欲望されるもので、理性により欲望のあり方を吟味し、徳のある生活を送ること。これによって私たちは自己配慮を行うと同時に世界全体に対しても配慮することができる(哲学名著133-134頁)。

→スピノザのいう世界観は、神が一切の原因としての世界だから、ちゃんと理性に従って生きれば神と一体化する=善、というようなイメージ。おおよそ人間がツライ状況になるのは外部との関係においてギャップが生じること。「うまくいかないな」というやつです。何でも全能の神のように「うまくいけば」それが善だというのは確かにその通りです。

◼️西田幾多郎(善の研究)

善を学問的に研究すれば、いろいろの説明はできるが、実地上真の善とはただ一つあるのみである。即ち真の自己を知るというに尽きている。我々の真の自己は宇宙の本体である。真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである(欲望論第二巻228頁)。

→天と一体化することを善とした儒教や、やスピノザの汎神論と似ていて面白い。私は「スムーズネス=順」という概念が好きで、全て自分の行いが無意識的に世界の法則と一体化すれば良いと考えますが、世界は原則偶然性に支配されているとも思うので一体化することはあり得ないのではと思っています。

◼️アリストテレス(政治学)

我々は自分の欲する意図や行いの対象=目的を「善いもの」と呼ぶ。「善」という言葉の一般意味を広範囲に取り集めて整理し、その中心をなすものを分析的に取り出した(欲望論第二巻224-225頁)。

→みんなの最大公約数的な善が善。確かにそうかもしれませんが、ツマラナイ。


そもそも善は、語り得ない=定義できない

◼️ヴィトゲンシュタイン(論理哲学論考)

倫理とは事実ではなく「このようにあるべき」という法則に基づくので検証することはできず、扱うことはできない(哲学名著322頁)。

◼️カール・ポパー(自我と脳)

私は概念や観念の対象や指示物に何の地位も与えない。善や正義の定義についての考察は、私の考えでは言葉上の屁理屈になるのがオチであり避けるべきである(欲望論第二巻229頁)

→それでも我々は個人的にも仲間うちでも「これはいいことだね」と納得したり共感したりすることがある。それは何故なんでしょう?という問いに対する答えが欲しい。

③善とはこれこれである、ではなく善はどのような構造で成立しているのか

◼️カント(実践理性批判) 

神に頼らずとも人間の感情ではなく理性によって善の法則性を捉えられる。

もし善が人間の生来の感情に、あるいは成育的な感情に根を置くなら、善は遂にその主観性を脱することはできない。善の普遍的規定性が可能であるためには、善は法則として定義しなければならない(欲望論第二巻224頁)。

ということで「人間の行為の善悪を判断する道徳法則は自分の判断基準が、世界中の人々のためになるよう、判断し行動すること」となる。したがって善そのものを捉えようとするよりも誰にとっても共通に持っている認識装置=理性を使って、現象としての善の共通項とは何か(=普遍的立法の原理)を探りましょう、という感じ(平原卓「自分で考える練習」より)。

→「世界中の人々のためになること(=普遍的立法の原理)って具体的に何ですか?」とカントに問いたくなってしまいますが、カントによれば、それを問うてはいけない。誰にとっても善といえるのは何かは、ちゃんと理性によって答えが出てくる、としか彼は言っていないのです。

とはいえ、キリスト教の善の束縛から離れて、人間の理性を使って「善とは何か」と問うたことは当時、画期的なことでした。

◼️竹田青嗣(欲望論)

人間の世界において、人間的価値の審級、「善悪」はその発生性をいかなる仕方で持つのか。これが解かれるべき第一の問題である。この問いは、どのような事態が「善」と呼ばれるかではなく、どのような関係が「善悪」という審級の分節を生成するのかと問う(欲望論第二巻240頁)」

→「善とは何々である」ではなく、善悪の価値観は我々が赤ちゃんとして誕生して以降大人になるにつれて、どのように形成していくのか、というその構造を問うべき、と発生論的に善のありようを見出していくのが妥当な善悪に対する考え方だ、という感じです。

この結果

善悪は、禁止と約束の関係のみから生成する審級的価値ではあるが、その始発点を「快―不快」のエロス的二元性に持つ。「快―不快」のエロス性が、関係感情のエロスへと中心性を転移する時、このエロスは「よい-わるい」と名付けられ、母―子の間の約束かとその順守と抵抗の関係を表現する時、はじめの「善―悪」の審級性を獲得する(欲望論第二巻257頁)

→ということで、ここでいう「母」は「育てる人」という意味で使っており、育てる人が父親でもお婆ちゃんでもよいとのこと。母と子の人間関係における約束事からスタートして自分と他者との関係がもっと大きな人間集団に複数に広がり、その個別の集団ごとの社会規範に従うのが自分の「心地良さ」となって身に付いたものが「善」という考え方。社会規範に基づく価値観が完全に自分の中に内面化されて無意識化→身体化していくという構造(幻想的身体という)。

【善悪の内面化の事例】喫煙者にとって1990年代まで吸わない人の近くで吸っていてもあまり罪悪感は感じなかったと思いますが、今吸うと俄然罪悪感を深く感じてしまう、というのは、時代を経るに連れて世の社会規範が変わり、吸わない人の近くでの喫煙が「悪」として内面化したから。

→ここでは善悪は他者との関係性において成立するものとなっていますが、私の場合は他者との関係性に加え、パーソナルな「善悪」もあるように感じています。「健康に良い」だとか「美味いな」だとか、他者との関係性を阻害しない範囲でのパーソナルな快の感覚も「善」と考えています。

以上、「善とは何か?」は、とてつもなく大きな課題なので、引き続き知見を広げつつ、どんな時に自分は「善」を感じるのか、内省して言語化していきたいと思います。

*写真:浅草駒形「ナベノイズム」 。食の歓びは、パーソナルな「快」としてまごうことなき、私にとっての「善」です(宮島達男さんのデジタルカウンターなど、お気に入りの芸術に触れる歓びも同じ)。


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