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トルコ民族とは何か?『トルコ民族の歴史』坂田勉著 読了(2024年3月改訂)

以下内容、トルコ系民族ハザール人のユダヤ教改宗について「誤った」と思われる内容あったので改訂しました。


<概要>

トルコ系言語を話す人々=トルコ系民族に焦点を当て、それぞれの地域ごとにトルコ系諸民族がどのよう経過を辿って今に至るのか?特に宗教の時代(中世以前)から民族の時代(近代以降)への移り変わりの中で、トルコ系がトルコ系として、どのように民族意識を獲得していったのか、が紹介されている著作。

<コメント>

トルコ民族とはどんな人々なんでしょう。中世の「宗教の時代」から近代の「民族の時代」に変わるにしたがって、「民族」という、これまでわたしたちの帰属意識にはなかった新しい概念が登場するに及び、改めてトルコ民族という民族について考察。

⒈トルコ民族を定義する

例えば形質人類学的には、トルコ人というカテゴリーはありません。なぜならトルコ民族には人種的には黄色人種もいれば白色人種(南欧系も北欧系も)もいるからです。

もともとトルコ民族(プロト・トゥルク)は、今のモンゴル高原あたりに住んでいた黄色人種&遊牧民族でした。しかしモンゴル高原あたりから各地に拡散していく中で、ユーラシア大陸の移住先の様々な民族と混血した結果、背格好から、髪の毛の色から、肌の色から目の色まで、共通する形質人類学的特徴は全くなくなってしまったのです。

本書21ページ

生活スタイルも、遊牧生活のままの場合もあれば、オアシスに定住して農民になった場合もある一方、タタール人やアゼルバイジャン人のように商人として各地を渡り歩いた人びともおり、その生業もバラバラです。

言語学的にも共通性はありません。トルコ系諸語を話す人のほか、イラン語系、スラブ語系、ギリシャ語系を話す人もいます。

とはいえ、モンゴル高原から各地に分散していった人々には共通するのは言語しかありません。イラン語系やスラブ語系を話す人々のうち、もともとトルコ系諸語を話す人たちを追っかけると共通する言語を話す集団に行き着く。それがトルコ民族です。

したがってトルコ系諸語を話す人びと(または過去に話していた人びと)のことをトルコ民族と定義できそう、ということです。

⒉現代のトルコ民族は、どこにいるのか?

それではトルコ民族は地球上のどの辺りに、ある程度固まりを持って住んでいるのでしょうか?トルコ民族は、この地球上にはおおよそ1億4千万人いると言われていますが、彼ら彼女らが住むエリアは、大きく分けて以下の通り。

⑴アナトリア

今のトルコ共和国とほぼ同じ地域。もちろん他民族とも共生していますが、トルコ語を話す人々はこのエリアに一番多く、約8300万人住んでいます。

セルジューク朝(1088ー1194年)などの民族移動に合わせて、中央アジアからアナトリア地方に進出し、ルーム・セルジューク朝(1077ー1308年)、オスマン帝国(1299ー1922年)などの支配者を輩出。

⑵中央アジア

トルクメン人(国名はトルクメニスタン)、ウズベク人(同ウズベキスタン)、カザフ人(同カザフスタン)、キルギス人(同キルギスタン)、タジク人(同タジキスタン)の五つの地域の人びと。

もともと中央アジアは、19世紀帝政ロシア征服下にあった時期、共通のトルコ系諸語を話す、

トルキスタン」という一つの地域の塊として意識され始めましたが、ロシア革命によって誕生した旧ソ連は「トルキスタン人」としての民族アイデンティティー形成を恐れ、トルキスタン人の住むエリアを意図的に五つの国に分割。それが今の中央アジア五カ国のルーツ。

これによって中央アジア人の民族意識(=ナニナニ人)は、五つの国の単位で意識されるようになります。ウズベク人・カザフ人・・・・

⑶アゼルバイジャン

私たち日本人には縁の薄い地域ですが、黒海とカスピ海の間にアゼルバイジャン共和国という石油産出国があります。

実はアゼルバイジャンは、モンゴルが南北に分断されているのと似ています。モンゴルは北モンゴル(=外モンゴル)が今のモンゴル国で、南モンゴル(=内モンゴル)は、今の中華人民共和国の内蒙古自治区。


Googleマップ

同じようにアゼルバイジャンも、アラス川を挟んで北部がアゼルバイジャン共和国(北アゼルバイジャン)、南部がイラン領土内の南アゼルバイジャン(東アゼルバイジャン州、西アゼルバイジャン州など)。

Googleマップ

なぜ南北に別れたかというと、帝政ロシアとイランの二度にわたる戦争(1813ー1814年、1827ー1828年)の結果、アゼルバイジャンは、アラス川より北の地域が帝政ロシアに割譲され、南の地域は従来通りカージャール朝イランの領土として残されたから。

中世以来アゼルバイジャンは、イラン系、つまりペルシア系の王朝に長期間支配されていたため、南アゼルバイジャンに関しては文化的にはアゼルバイジャンを意識するものの「政治的にイランから離れるべきではない」という考え方だそう(=独立運動はしない)。

⑷その他

その他、中華人民共和国にウイグル人(新疆ウイグル自治区)も、ロシア共和国にタタール人(タタールスタン共和国)もトルコ系の言葉を話しているのでトルコ民族の一派ではありますが、本書ではその詳細は紹介していません。

⒊なぜトルコ民族はイスラーム教を信仰したのか?

これだけユーラシア大陸全域に移住してきたトルコ民族ですが、どの系統もほぼイスラーム教徒です(ユダヤ教に改宗したハザール人※除く)。

※ハザール人
一部、南ロシアに移住したトルコ系のハザール人はユダヤ教を受け入れ、19世紀末に帝政ロシアの迫害を受けて多くの人がパレスチナに移住、イスラエル建国に重要な役割を果たしたといいます。
 一説には今の白人系ユダヤ人(=アシュケナジー系=東欧系)の多くは、南ロシアから東欧に移住したハザール人の子孫だと言われているらしく、旧約聖書に出てくるユダヤ人(=セム系=黒髪で褐色の肌)とは遺伝的には何のつながりもないどころか、実はトルコ系だったというから驚きです。

→内容は本書に基づいた仮説ですが、WIKIによると遺伝学の成果によってこの説は否定。アシュケナージ含むユダヤ人に特有のパターンがあるとのこと。ハザール人の一部はユダヤ教に改宗したのはおおよその通りらしいいのですが、あくまでその人々はアシュケナージの一部に過ぎない、ということでしょう。

2024年3月追記

1999年のHammerらの研究(米国科学アカデミー紀要掲載)はアシュケナジム、ローマ系、北アフリカ系、クルド系、近東系、イエメン系、エチオピア系のユダヤ人を、それぞれの近接した地域の非ユダヤ人集団と比較した。それによると「異なった国々への長期の居住にもかかわらず、そして互いと隔離されていたにもかかわらず、ほとんどのユダヤ系住民たちは、遺伝子レベルでは、互いと大幅な差異は示さなかった。

2024年3月追記:wikipedia”ハザール”

トルコ民族は、もともと多神教的な呪術宗教、シャマニズムを信仰。トルコ系遊牧民のイスラームへの改宗は、中央アジア・イラン地域のカラ・ハン朝(840ー1212年)の時代、10世紀にはおこなわれたらしい。

アッバース朝を宗主国とした中央アジア初のイスラーム国家サー・マーン朝(875ー999年)から亡命してきた貴族&商人が、カラ・ハン朝の支配者サトゥク・ボグラ・ハン(?ー955年)にイスラームへの改宗を促したのがそもそもの始まり。

なぜシャマニズムからイスラーム教に改宗したかというと、もともとトルコ民族はイスラームとの相性が良かったのでは、というのが著者の仮説。

イスラーム教徒のうち、スンナ派としてのスーフィー(イスラーム神秘主義者)と呼ばれる宗教者の働きかけが大きかったといわれており、スーフィーの思想がトルコ民族が信仰していたシャマニズムに近い思想だったのではと推定。

*シャマニズム
諸精霊が天(テングリ)を頂点とするピラミッド型のヒエラルキーをつくり、それら諸精霊の意志が世の中のさまざまな現象の原因となり、災害や病気を引き起こすという考え方。災害や病気の要因を知るためには天の意志を知らなけらばならず、そのためには断食や不眠不休などの修行によって霊的な力を持ったシャマンに頼らなければならないという。

*スーフィズム
イスラーム神秘主義。コーランなどの啓典を重視した法学的立場とは一線を画し、修行によって神との合一を目指そうとした思想。神と合一するためには神を感じることが必要であり、そのための修行がスーフィーの修行。

つまり神を知ろうと修行するスーフィーが、霊的な力を持とうと修行するシャマンの存在に似ているためにスーフィーに対する畏怖と崇拝→信仰が生まれ、結果としてイスラーム教への改宗が進んだのではないか、と著者は推測。

時代を経るにつれ、中央アジアに住むトルコ系の多くはスーフィー教団のうち、一大勢力となったナクシュバンディー教団を支持し、ペルシアに住むトルコ系はスーフィー教団のうち、スーフィー教団の一つであるサファビー教団を支持しましたが、サファビー教団は内部で大きな変化が起こり、シーア派イスラームへの宗旨変えに伴いシーア派となります。

このように、トルコ民族はジハードなどよりも、シャマニズムを発展的に解消してスーフィズムを信仰し、地域的な文化的つながりの延長として現代につながるスンナ派、シーア派に分かれていったのです。


一方でイスラーム国家の中で生きていくためには、相当な重税だったというジズヤ(異教徒を対象にした税)から逃れるためにもムスリムであり続けるのは得策であったわけで、イスラーム帝国に組み込まれていく過程で、必要に迫られてというのも大きかったのではないかと思います。


*写真:イスタンブルの某ハマム(公衆浴場)2010年撮影

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