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『イスラーム基礎講座』渥美堅持著 書評

<概要>

イスラーム教について、その思想から歴史、現代のイスラム案件(原理主義、テロ、アラブの春など)まで、網羅的に解説したイスラーム「総合」講座。

<コメント>

すでにイスラーム教関連の著作は何冊か読んでみましたが、作家の佐藤優が「イスラームについて知るにはこの本を超えるものはない」と紹介しているように個人的にも本書が一番トータルでイスラーム教のことが理解でき、初心者向けとしては、相当おすすめの本。

ただしなかなかのボリュームなので、もっとざっくり知りたい方は、以下もおすすめ。ビジュアルでスッと頭に入るようになっています(なお、この手の本で「池上彰」系の著作はおすすめしません。他ジャンルで何冊か読みましたが、おおよそ内容は表面的で浅いので。。。)


さて、イスラーム教ですが『イスラーム基礎講座』を読むと、そのシンプルな思想に不思議な親近感が湧いてしまいました。

我々日本人は、欧米的視点(=マスメディアや学問の世界)からの情報収集になるため、イスラーム教を誤解しがちなのが本書を読んでもよく理解できました。

(よくテレビで「国際社会」といいますが「国際社会」は「欧米社会」とほぼ同じ意味)

以下は大変おこがましいのですが、本書を読んで「なるほどそうだったのか」と感じたことについて、いくつか私なりに整理してみました。

■「主権在神(アッラー)」のイスラーム教

イスラーム教は人間が創造したものではありません。アッラーの啓示によるものです。

人間がアッラーから与えられた律法宗教です。アッラーがこの世を創り、アッラーがこの世を支配し、我々の行動から思考から全てはアッラーの意志によるもので、人間の意志は存在しません。

アリストテレス風にいえばアッラーは、万物を司る「不動の動者」。ただアリストテレス哲学と違ってアッラーには最高善というような「目的」があるかどうかも人間には認知できません。

アッラーのその都度の命令によって世の中がアッラーの意志のままに動いているのです。

したがってアッラーの命令の根拠(なぜ?)は当然ながら人間にはわかりえません。そもそもアッラーに「なぜ?」があるかどうかも分かりません。

なお、私が親近感を感じた点は、アッラーと人間は「1対N」でダイレクトに直結しているということ。キリスト教の神父などの媒介者は存在しません。そういう意味で、とてもパーソナルでシンプルな宗教。

なので信仰に関して周りを気にするのはイスラーム教ではありえません。例えば信心深いムスリムが、いい加減なムスリムに対して「君はもっと真面目に礼拝しなさい」だとかは、言ってはいけません。人間に命令できるのはアッラーのみ。人間が人間を指導するのは不遜な行為なのです。

つまり余計なお節介は、ムスリム同士ではご法度。

こういう意味でいえば、イスラム原理主義的な統治は、ムスリム全員に厳格なイスラーム律法(シャリーアという)を強制し、従わない場合は宗教警察を通じて罰するので教義と矛盾するような気がしますが、私もまだイスラーム初心者なのでそのあたりは不明。

■モスクは単なる礼拝所

モスク(マスジット&ジャーミイ)は、寺や神社、教会などとは全く異なる施設。この場所は異教徒から、また暑さ寒さから身を守り、安心して祈る場所をを提供しているスペースであって、他宗教のような聖なる場所ではありません。

これはメッカの大礼拝所でも同じ。

そもそも、イスラーム教には聖俗の概念がありません、どこにあっても、ムスリムは常にアッラーとダイレクトにつながっているのです。なので聖俗という考え方自体がナンセンス。

■強制布教はせず、異教徒とは共存

これも誤解していました。西洋でいうイスラーム教の布教活動を指して「右手にコーラン、左手に剣」というのは、全くのデマです。

ムスリムは、もともと布教活動はしません。これは今も同じです。なお無理やり異教徒を改宗させる強制布教はアッラーによって禁止されています。

宗教による強制があってはならない。まさに正しい道は迷誤から明らかに分別されている。それで邪神を退けてアッラーを信仰するものは決して壊れることのない堅固な取っ手を握ったものである

(アル・クラーン:雄牛の章256節)

イスラーム共同体(ウマームという)が支配地を広げたのはアラブ民族共同体がイスラーム化で繫栄し、人口が増えたためにその食い扶持(=税の徴収)を求めて周辺地域を侵略していったから。キリスト教社会の「侵略→宣教師派遣→キリスト教布教」のような形ではありません。

侵略した植民地の異教徒に対しては安全を保障する代わりにジャズヤ(人頭税)とハデージュ(土地税)を徴収したのですが、これが相当な重税だったらしい(収入の50%)。ただし税さえ払ってしまえば、例えばユダヤ教などの社会はそのままその地で保持され共存していたのです。

とはいえ、重税回避目的でイスラーム教に改宗した住民も多く、結果として植民地にもムスリムが増えたという流れのようです(彼ら彼女らを「マワーリ」という)。

また、改宗によってイスラームネットワーク内に入り込むことができ、商売上有益なコネや情報が手に入ったり、安全保障上も有益であったなどの現実的利益があったことも無視できなかったらしい。

なおイスラーム教への入信はとても簡単で、洗礼のような儀式を必要としません。成人のムスリム2人を証人に、2つのアラビア語を宣誓するだけ。その言葉とは

「アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イッラッラー(アッラーのほかに神なし)」
「ワ・アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー(ムハンマドはアッラーの使徒なる)」

■ジハード(聖戦)とは

イスラム教に従わないものには聖戦(ジハード)を仕掛けるということもイスラーム教の教えにはありません。ジハードとは「戦い」「努力」という意味で、「大ジハード」と「小ジハード」に分かれます。

「大ジハード」=自己の内面の悪と戦い、信仰を深める努力のこと
「小ジハード」=イスラーム教の平和な世界(ダール・サラーム)を守るための努力のこと。

したがって、我々日本人がイメージするジハードは小ジハードのことで、イスラーム共同体を侵害する敵(イラクやアフガニスタンを侵攻したアメリカや旧ソ連など)に対して戦うのが、まさに「ジハード」であって、侵略戦争はジハードではありません。

なので自爆テロ行為も「イスラーム共同体を守るための戦いなのかどうか」が、ジハードかどうかの判断基準になります。

■アッラーの言葉「アル・クラーン」(コーラン)

アッラーの言葉は、預言者のアラブ人マホメットを通じて人間に伝わりました。その言葉をそのまま書き記したのが「アル・クラーン」。

なので、アッラーの言葉は、アラビア語として伝わったのも、マホメットを選んだのもアラビア語を選んだのもアッラーであって人間ではありません。

アル・クラーンは、神の言葉なので外国語に翻訳した時点でアル・クラーンではなくなり、アル・クラーンの解説書ということになります。なので我々は図書館などで日本語訳の「コーラン(アル・クラーン)を借りてきて読むことはできますが、これはアル・クラーンを読んだことにはなりません。

ここで興味深いのは哲学者ヴィトゲンシュタインのいう言語の不確定性の問題(詳細は以下参照)。

言語は数学のように1対1の関係で、意味とそのまま直結することはありません。文章の中の文脈だとか、その場に置かれた状況によって言葉の意味は変わっていくもの。したがって「アル・クラーン」も、解釈によってその意味はいかようにも変化します(この辺りは日本国憲法9条の解釈と同じ事情)。

時代や場所が変われば、新しいものが生まれ(今だったらスマホや暗号通貨など)、文化や慣習なども変わっていくわけで、その環境に合わせて言語は、同じ言葉でもその意味(や解釈)が変わっていくように、これは「アル・クラーン」も一緒。

なので、時代や場所に合わせて「アル・クラーン」をどうやって解釈するかが重要で、それを担うのがイスラム法学者。

したがってアッラーの言葉はイスラム法学者がどのように解釈するか、によって変わってくるので、イスラーム社会では法学者が最も権力を持っているとも言えます。

例えば、イランの場合はハメネイ師というイスラム法学者が最高権力者ですが、

サウジアラビアの場合は、国を統治するサウド家が、イスラム教スンニ派のワッハーブ学派のイスラーム法学者を支配下に入れることによって、いかようにも「アル・クラーン」を解釈させることで、権力を牛耳っています(詳細は以下)。

そもそもイスラーム教は、ユダヤ教のモーセ、キリスト教のイエスに続き、ムハンマドを最後の預言者(=神からの啓示を預かる者。将来を予言するものではない)としているので、アッラーの啓示は現代社会にはもう降りてきません。

アッラーは、商人のムハンマドが生きるアラブ社会(西暦600年前後)の当時の社会状況に合わせて啓示しているので、現代社会と当時のギャップを埋めるためにどうしても解釈が必要となってしまうのです。ここにイスラーム教の難しい問題があるのではないかと思います。

*写真:UAEアブダビ シェイク・ザイード・グランドモスク(2017年撮影)

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