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修験の山としての日光「修験道入門」より
「修験道入門」では日本各地の霊山についての詳細が紹介されています。なかでも興味深いのは日光。
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日光とはいえば「東照宮があって江戸幕府の創始者徳川家康=東照大権現を祀る土地」という印象ですが、それでは江戸幕府がやってくる前の日光は、どうだったのか?
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それは山伏の跋扈する修験信仰の山=霊山だったのです。
著者は、
日光修験は江戸時代に、家康を祀る東照宮の造営から弱体化してしまった。宗教というものは人間の精神の高揚であるが、これが権力の保護を受けると弱体化するという良い例である。
とし、宗教は政治や経済などの俗に染まると、宗教本来の価値が失われてしまうとの考え。
政治とは権力であり、経済とは金儲け。したがって神道のように国教化されたり、勧進やお布施によって宗教法人が過剰に儲かってしまうと、教えや修行は形骸化して途端に堕落してしまう、というのは古今東西、どこにでもある普遍的なセオリーなのかもしれません。
著者曰く
日光修験にとってここに東照宮が造営され、これを祀るために輪王寺が出来たことは、退廃の第1歩だったといわなければならない。それまでの兜巾鈴懸(=山伏の衣装)は、絹の色衣や金襴の袈裟に替えられ、草根木皮の粗食は美膳に替えられたであろう。
ともあれ、今の日光は二社一寺といって、輪王寺・東照宮・二荒山神社がありますが、わたしも何度も観光で訪れているものの、著者同様イマイチこの位置関係がよくわかりません。
しかし修験の山としての日光山は明確で、その宗教的発祥はあくまでも二荒山(=男体山)を中心とする山岳信仰。勝道上人によって奈良時代に開かれた日光山は、
古代・中世の関東平野を耕作する人々は、鍬をやすめながら、はるかに仰ぎ見る日光連山に、霊験あらかたなる神の実在をみとめていた。
日光山も、元の名前は二荒山(にこうやま)。さらにそのもとは補陀落山(ふだらくやま)。「ふだらく」が「ふだら」となり、音読みで「にこう」に変身し、日光という名に。なので日光は熊野の補陀落山寺やチベットのポタラ宮などとその語源を共有しているのですね。
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輪王寺は、もともと二荒山の山霊の本地(成り変わり)を千手観音としてまつる神宮寺が→中善寺→四本龍寺(または万願寺)と変遷し、江戸時代(1655年)に天海が輪王寺と改称し、比叡山よりも上の寺格として位置づけ(というか実際には徳川幕府)。
戦場ヶ原は、戦いの場ではなく、千手観音の草原→「千手が原」が語源。千手が浜は、中禅寺湖の西岸のことを指します。
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そして輪王寺が出来て以来、吉野の金輪王寺はこの名称を称することが禁じられたといいます。
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このように、江戸時代に日光が徳川幕府の権力下に取り込まれて以降、輪王寺は天台宗の教学研究に重きが置かれ、多くの修験の行事が廃止となって修験道は衰退。
代わりに近隣の古峰ヶ原信仰が修験の世界で隆盛を極めます。古峰ヶ原信仰では、もともと天狗が信仰されていたのですが、天狗とは、修験者が神仏になる前の姿。
古峰神社では、これもまたときの権力に翻弄され、明治政府の神仏分離令→修験禁止令(1872年)によって、修験のご本尊としての天狗から、国家神道の日本武尊にすげかえられてしまいました。
しかし今でも神社の大広間には大小の天狗面が所狭しとかけてあるそうです。
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