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『イスラームから世界を見る』内藤正典著 私評

<概要>

イスラームからの視点で現状の国際状況をみるとどうなるか、非常に分かりやすく、かつ説得力のある内容で解説してくれる本。

著者自身、トルコ語を話すということもあり、アフガニスタンのカルザイ大統領含め、イスラム圏の有力者たちの直接インタビューの経験が豊富で、彼らから見たアラブの春、シリア内戦、アフガン問題やトルコ人によるアルメニア人大量虐殺事件、ムスリムのヨーロッパ移民たちの見方なども非常に興味深い内容。

また、近代国家の概念、民族という概念の経緯等、知識人としての基本的素養を身につけていることもあり、イスラームからの主観に陥ることなく、冷静に世界情勢をとらえている所も好感が持てます。

<コメント>

10年前にイスラームについて知るために読んだ著作を今回改めて再読してみました。

19世紀に誕生した近代国家(=国民国家=ネイションステイト)という枠組みとイスラームとの関係性を、日本や西欧と比較しつつ展開させた「第7章ヨーロッパとイスラーム」は大変読み応えがあり、世界中の人々がどうやって近代国家の枠組みを受容していくか、いくべきなのか、非常に参考になりました。

日本の明治政府による近代国家の創造も、イスラームと対比させながら、以下のように整理してくれてます。

最近、イスラームへの回帰を強める人たちが増えてくるにつれて、悪いのは、民族と民族を争わせてきた民族主義そのものだ、と主張する人が増えています。

「私たちは日本人だ」という、近代国家の枠組みが当たり前だと思っている日本人が多いのですが、「そうではない」という事情を簡潔に説明してくれています。そして日本の近代国家創造にあたってはヨーロッパと真逆なことをやっていて無理があったと言います。

日本では、近代国家を創ろうとするときに、国家が特定の宗教(神道)を利用して、民族主義の高揚を図りました。これは、ヨーロッパと逆のプロセスになっていることに注目する必要があります。ヨーロッパでは近代以降、民族主義が高まるにつれて教会の権威は失われていきます。

日本の場合も、近代国家として生まれ変わるには西欧の文明を導入せざるを得ませんでした。その西欧文明というのは、中世のキリスト教文明ではなく、近代になってキリスト教会の力が衰えた後に栄えた近代の西欧文明です。近代西欧文明というのは、前に書きましたように、キリスト教から離れていく過程で生み出された科学や啓蒙思想が基本にあります。

 それなのに、近代西欧文明が宗教から分離していったことは封印した上で、積極的に受容し、天皇を頂点とする神権国家を作るというのは、ずいぶん無理なプロジェクトでした。
本書28頁

個人的には啓蒙主義に基づいた民主主義国家ほど、普遍性を持った国家としての枠組みはないと思っているので、西欧特有の事情から誕生した枠組みだとはいえ、他の地域でも十分機能すると思っています。

したがって、著者の考えとは違いますが、民主主義を前提にした近代国家の枠組みの中でもイスラーム教は十分共存可能だと思っています。

現在の国家において、国境線を引いた地理的な枠組みの中で、スムーズに国家を運営するためには、宗教を国教化してしまうと異教徒はどうしても差別されてしまう。

本書でも言及されているように、ウマイヤ朝・アッバース朝・オスマン帝国はじめとしたイスラーム共同体は、異教徒と平和に共存していましたが、どこまでいっても異教徒は従属的な立場として余計な税(ジズヤという人頭税)を課されていたわけで決して対等ではありませんでした。

つまり不平等を内在化したシステムがイスラーム国家なわけで、誰もが幸せになれる共同体ではないのです。

イスラーム教と同じく律法宗教であるユダヤ教を信仰するユダヤ人でも、彼ら彼女ら独自の律法に基づいたコミュニティの中で、近代国家の枠組みの中で生活しています。

そして、本ブログでも紹介したように、アラブ人はイスラーム国家時代においてもコーラン含むイスラーム法に厳格に則って生活しているわけではなく、イスラーム法よりもアラブ部族社会のルールを優先させていたわけです。

したがって民主主義のルールの中で、ムスリムが生活するのは当然可能であり、無理なものでもない。

国家を運営する権力者たちの能力は、いかに国民に飯を食わせていくか、が最も重要ではあるものの、独裁は間違いなく失敗した時のリスクが高い政治システムなので、平和的に政権交代が可能な民主国家としての枠組みは、ムスリム主体の国家であっても最低限必要なシステムではないかと思います。


以上のほか、興味深かった内容をメモ。

この宗教は「イスラームというものを信じる宗教」ではなく「イスラームする宗教」なのです。
イスラームというのは「唯一」の「絶対者」である神アッラーに全てを預け、アッラーの定めた通りにしたがうことをいいます。
本書16頁

→しかし現代社会においてはカトリック同様「対等な共存」という概念を前提に置くべきでしょう。

オバマ大統領が、理想主義的に中東民主化を称賛したかったとしても、アメリカ政府、特に外交を扱う国務省は、そんなことよりエジプトという「国家」をアメリカにとって友好的な「国家」にとどめておくための方策を重視しています。アメリカにとって有効な国家というのは、イスラエルにとっても有効的な国でなくてはなりません。そのためには少なくとも当面のあいだ軍に政権を移譲することができる妥当な結果だったのです。
同93頁

→国家は道徳で動くのではなく、国益に基づいて動く事例。

シリアのアサド政権には、およそ仁義というものは通用しません。イスラームを守っていると、どうしてもか神の命令に背いてはいけないなあという感覚が多少はあるのですが、シリアの現政権にはそれがありません。前に書いた通り、イスラーム色がないのです。
同104頁

→イスラームよりも体制維持に固執する典型的な独裁政権のカタチ

ムスリムの社会で「あなたの宗教は?」と尋ねられて、もしも「ない」と答えると、神アッラーを全否定したと取られる可能性が高いからです。
同117頁

→宗教に関心がない大半の日本人にとってこのあたりは難しい問題

20世紀の後半にアラブ諸国が独立国家になるときには、イスラーム共同体を再興するという発想はあまり力を持ちませんでした。発想そのものは、ずっとあったのですが、ヨーロッパがやったような国家の力による支配に対抗するには、力を持った国家を作ることが先決だということに多くのアラブ人が同意したからです。
本書128頁

→現代にイスラーム帝国を再来させるのは、不平等な社会を再現させるだけです。

殺人事件というのはイスラーム法的には刑事事件ではなく、民事事件なのです。日本や欧米では刑事事件では当事者(被害者や遺族)が報復することは許されません。全て司法の場で裁判を通じて裁かなければならないことになっています。しかし、イスラーム法的にはこれはおかしなこととなります。何故、国家権力が個人対個人の争いとその結果としての障害や殺人に口を挟めるのか?という疑問の方を重視するからです。
本書177頁

→これも興味深い内容。殺人が民法案件とは。。。

以上、国際社会視点(=欧米+日本視点)とは異なる中東ならではの視点は、より世界を俯瞰的に見るには必須の視点ではないかと思います。

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