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生き物は、殺していいかどうか?

最近、服部文祥著「息子と狩猟に」という著作を読んだのですが、

何を「殺し」の基準にするか、を問う問題として非常に興味深い内容になっていますので紹介。

詐欺犯罪者が人殺しをして、山中に被害者を埋める場面に、息子を連れた鹿狩りの狩猟者である倉内が遭遇してしまう。そして狩猟者の息子を捕らえた詐欺犯罪者が、その息子を人質に猟銃を交換しようとして人質にし、結果、親の倉内が詐欺犯罪者を殺してしまう。

狩猟者の倉内曰く

「自分がすごく変なことを言っているのはわかる。でも大きい動物をたくさん殺すと、命に対する考え方が変わってしまう。狩猟をするとケモノと人間が同じに思えてくる。でもケモノは殺していいのに、人間は殺してはいけない。なぜかずっと考えてきた。いまは人間とケモノの命に違いなんかないと思っている」

つまり倉内は「人間も大きなケモノも命に違いはない」のではないか、という疑念を心の中で無意識に思っていたからこそ、躊躇なく詐欺犯罪者を殺せたのかもしれない、と自答します。

そもそも我々人間は「仲間か仲間じゃないか」で「殺して善いか悪いか」判断しています。「ウチ」と「ソト」の概念といってもよい。

狩猟者の倉内のように「大きなケモノ」も内集団=仲間として内面化しているのであれば「同じ命」の扱いになって、普通はここで狩猟は「悪」になるわけですが、倉内の場合は逆。

狩猟の場においては、人間も大きなケモノも同じ命=狩猟される獲物としての視点でみてしまう。仮に彼が狩猟の場ではなく、都会であればもしかしたら鹿も人間も殺しはしないのではないか。何らかの価値観の転換が「場」の違いによって起きているのではないか。

さて人間の間での殺しはどうか。これは

仲間であれば命を守り合うし、仲間でなければ殺しも悪にはならない。これは原始狩猟社会以降、現代に至るまで普遍の人間の価値観

ではないかと思っています。

今は近代国家が「仲間」としての内集団扱いになっているので、戦争における敵国の人間は殺してもいいことになっています。

ウチとソトの概念の境界線が、どんどん広がっているのが現代社会。

戦争反対は人間全体は内集団にすべきという思想だし、最近の動物愛護に関しては、更に大きな動物まで内集団の範囲が広がっています。この小説も同じ。

さすがにミジンコなどの微生物までは広がらないとは思いますが「一体どこまでの範疇が動物愛護=内集団の範疇なのか」はとても興味深いところではあります。

一方で、動物愛護に関しては「ウチ」か「ソト」かの概念で扱う場合と「絶滅するか、しないか」という生物多様性の価値基準が対立する場面がよくみられます

捕鯨問題における対立は典型的です。

「生物多様性の問題」としてみているのが捕鯨国日本・ノルウェーで、一定の個体数が維持できれば、多様性の問題は維持できるとし、それ以上の鯨は捕獲してもよいという考え。

一方で鯨も「人間と同じ内集団」だとするのがオーストラリアなど捕鯨に反対している国家。彼らは多様性の問題から捕鯨を禁止すべきと主張しているのではありません。鯨は人間の仲間であって気遣いすべき生き物なので、殺してもよい生き物ではないという考え。これではどこまでいっても合意は不可能。

個人的には大きな動物全てを「内集団=仲間」として扱うのは、そもそも「雑食たる人間の食の性」として、ちょっと行き過ぎではないかと思っています。

とはいえ、どこまでを仲間にすべき生き物で、どこからは違うのか、は人によって大きく違うし、全員が納得できるようなものでもない。お互いの立場をどこまで認め合えるのか、そういう問題です。

*写真:2008年 南アフリカ ケープタウン テーブルマウンテンにて遭遇した謎の野生動物

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