脳科学と哲学の相似性「単純な脳、複雑な私」池谷裕二著 書評
◼️価値観における脳科学と哲学の相似性
『「あのガキ、気にくわないから叱ってやったよ」なんてエラそうにいう親父がいるけど、でも、それは勘違いだ。自動的に怒りが湧いてきて、その感情にしたがって叱っただけ。でも、本人は教育してやったつもりになっている。ただそれだけだよね(430頁)』
池谷氏によれば人間の自由意志は自分の預かり知らぬ無意識によって支配されているといいます。でも私が思うに「無意識」そのものが自由意志であって、その根拠となるのが汎化されたその人の価値観=個人の虚構ではないか。
一方、システム2の意識的に意志を働かせる行為自体は、新たな価値観を生み出そうとしている行為であり、それはその時点では自由意志ではないと思います。
結果としてその当人に満足を与えるものであるならば、この行為は自分に新たな「快」を生むことで、新たな自由意志の根拠となる価値観にアップデートされるための「予備的な価値観」になるかもしれません。
(快感刺激とセットになって脳に入ってくると、やがて脳自体が変化を始める。好きなものに触れたり、嫌いなものにさらされると、脳の物理的構造そのものが組み換わっていく。後天的な好き嫌いという嗜好性は、ネズミでも人間でも、きっと、そうやって形成されていくものなんだろうね:135頁)
このオヤジさんも、オヤジさんに完全に内面化されている価値観にマッチしないガキの行為が「不快→怒り」の感情を生み出しているという構図。
オヤジさんにとっては、オヤジさんの価値観に寄り添ったものだけが「善」であり、その価値観に沿った行動をガキに「教育する」のは自然な行為に感じます。
(「正しい」「間違い」という基準はなく、むしろ、その環境に長く暮らしてきて、その世界のルールにどれほど深く馴染んでいるかどうかが、脳にとっては重要だってこと。もう一歩踏み込んで言えば「正しい」というのは「それが自分にとって心地よいかどうか」なんだよね。その方が精神的に安定するから、それを無意識に求めちゃう。つまり「好き」か「嫌いか」だ:130頁))
ただオヤジさんの価値観が「その時その場の社会の価値観=虚構にマッチしていれば」というのが前提ですが。。。
ここでも哲学(欲望論)同様、池谷氏も親と子に始まる禁止と許可に基づく快不快→善悪の価値観形成=汎化によって好き嫌いの世界観が生まれる(428頁、131頁)というのは、脳科学も哲学も全く同じ。
「僕らの感情や嗜好は、知らず知らずのうちに、全く預かり知らぬ原因によって、すでに形成されちゃっている可能性がある(428頁)」のも、発生論的に自分の人生を辿っていけば、まさにその通りだと思います。
いわゆるシステム2(意識的思考)による欲望は、すでにシステム1(反射的思考)の内面化された価値観から生み出されるのは間違いないはずで、それは自分が「支配されている」「操られている」という感覚だと学生さんが言っているのですが、むしろ「操られている」自分の反射的思考の根拠(=個人の虚構)そのものがその人の意志といっても良いのではないかと思います。
池谷氏も「その操っている本体は、結局は、自分の脳に他ならない(429頁)」
ただ、池谷氏はこの本体とは違う自分がいて、そっちの自由がないというのですが、この辺りは私にはよく理解できませんでした。一応「自由は感じるものであって、本当の意味で自由である必要はない(429頁)」とはいっておりますが。
◼️人工知能に関しては非常に興味深い解釈をおこなっています。
池谷氏は「違和感なく生命と感じたらそれは生命:230頁」として、「自分が理解したらそれは理解したこと:232頁」とも定義し、所詮人間は自分の認識しかないのだから、人工知能も生き物もこの色が”赤”だということも自分がそう認知したら、そう思えば良い」というのはなるほどと思います。
所詮我々は自分の認識した確信しか、信用するものはなく、他者との関係性において、検証するのはもちろん重要ではあるものの、結局自分が認識するしかない。
実は中身は機械であっても、どう見てもこの人工知能は「人間」としか思えないと自分が思えば、それは「人間」で良いじゃないか、ということです。
これはこれで一つの説得力ある解釈だなと思います。
◼️因果律は脳の錯覚
認知革命や宗教の根拠となる因果律。人間は「因果律から逃れられない」わけですが、自然科学の手法は「原因と結果の関係性は、相関関係でしか説明できない」わけで、それを因果律として認知するのは脳の錯覚だ池谷氏はいいます。
確かに実験と結果の再現性が強い=相関関係が強いということをもって、この結果の原因は「コレ」である、というのはどこまでいっても実験では証明できない。
イギリスの哲学者ヒュームの300年前の考えを、現代に生きる脳科学者がなぞったような感じです。どんな科学的理論=学説も「反証可能性は拭いきれない」として自然科学はどこまでいっても仮説でしかないとし、これをヒュームは「習慣」と名付けました。
確かにその通りではありますが、でも所詮「この世に絶対」はなく「誰もがそう確信せざるを得ない」という間主観的確信によってこの世界の客観的事実は成り立っているわけで「誰がやってもこの結果しか出ない」という相関関係であれば「因果関係」と認識しても良いのではと私は思っています(=この点は私自身、まだ完全な確信には至っていませんが)。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?