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『コーラン』を読む:井筒俊彦著   読了


<概要>

イスラム教の聖典『コーラン』を読むことで「イスラーム教の本質」と「言語の本質」の双方を私たちに知らしめようとした言語哲学者「井筒俊彦」の講演録。

<コメント>

アラビア哲学専門家にして早稲田大学准教授小村優太先生の「イスラーム思想入門」の講義で紹介されていたので、さっそく読んでみました。小村先生によると本書は『コーラン』を題材にした井筒思想、ということだそう。

以下長くなりますができるだけ、今の私たちのコトバに翻訳して紹介したいと思います。

⒈『コーラン』の成立過程

『コーラン』は、ムハンマドに下った断片的な(アブラハム経由で下された)神の啓示を、約20年にわたって、少しずつ周りの人たちが書き留め、収集したもの。

預言者ムハンマドが、自分自身で書き留めたのではなくて、彼の周りにいた数人の付き人たちが、憑神状態のムハンマドの口から流れ出るコトバを、その場で、羊皮紙の切れ端などに書き留めていったもの。

したがって『コーラン』は人間が声を出して発声された「話しことば」だから「話しことば」として声にあげて読誦すべき聖典。

だからアラビア語でなくてはいけない。『コーラン』を日本語に訳して日本語で読誦しても無意味なのです。

とはいえ、世界中に14億人いるというイスラム教徒が本当に『コーラン』をアラビア語で読誦しているかどうかは、相当に怪しくは感じてます。

⒉著者の考える言語の本質

この辺りは哲学者ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」とほぼ同じような内容のように感じるのですが、本文中にはウィトゲシュタインの「言語ゲーム」についての言及はありませんでした。

話しことばは、その時その場で発話された内容をもって独自の意味をなすわけですが、そのことをもって著者はこれを「パロール(=発話)」と呼びます。

だから『コーラン』においても、ムハンマドの口を通じて発せられた「神のコトバ」が、そのときの時代性、地域性を踏まえた、その時発せられた文脈において「本来的な意味はどういう意味だったのだろう」と想像を膨らませながら解釈すべきだといいます。

しかし、私たちがいま接するアラビア語の『コーラン』という書きことば(「エクリチュール」という)は、

いつ、どこで、どういう人が、どんな心理状態あるいは身体的状態で、どんな状態の人に向かって話しかけるのか、等々の要因で形成される発話行為特有の状況(シチュエーション)がほとんど全部消し去られてしまう。ポール・リクールのいわゆる「状況の脱落」です。

本書38頁

ということ。

要するに『コーラン』という「書きことば」=テキストだけでは、ムハンマドが発した神のコトバにまつわるすべての文脈から切り離されてしまっているのです。

したがって『コーラン』という書きことばは、単なるテキストデータとして、いかようにも解釈できるのであって、(これまで私が散々ここで紹介してきた通り)「一義的」でありません。したがって著者は、以下のように『コーラン』を読む。

私がこれからやってみようとしている『コーラン』の読み方は、エクリチュールの次元で与えられている『コーラン』のテクストをパロールの次元に引き戻す作業から始まります。すなわち書かれたコトバを話されたコトバの濃密な状況性のなかに引き戻すことが『コーラン』解釈の第一段。

本書61頁

こうやって『コーラン』という話しことばの意味を把握したうえで、さらに神は何を私たちに伝えたかったのか、その神の啓示の本質を紹介するということが『コーラン』を読むことだと著者は言います。

次にパロールの底に働いている下意識的意味連関まで掘り下げていく。そうした意味掘り下げの操作を通じて、そこの『コーラン』特有の世界観、あるいは『コーラン』的な存在感覚のようなものを浮かび上がらせようというわけです。

同上

なお、時代時代の権力者やイスラーム学派やイスラム原理主義者や、歴代のアラブやペルシャやオスマンの王族たちは、これまでハディース(ムハンマドの言行録)と合わせて、『コーラン』を自分たちの都合のいいように解釈してきたし、それは今も同じです(具体的にはイスラム法学者に自分に都合の良いファトワー※を出させる)。

※ファトワー:イスラム法学に基づいて発令される勧告、布告、見解、裁断のこと

wiki

しかし著者は、これこそが「イスラーム文化史」だとして著書『イスラーム文化(岩波文庫)』を別途著作。

私は『イスラーム文化』のなかで、イスラーム文化は根本的に解釈学的な性格を持った文化であって、要するに『コーラン』解釈学がそのすべてなのだということを強調いたしました。それはこういう意味だったのです。

本書53頁

⒊解釈学者ガダマーの「内的地平」

本書で紹介されているガダマーの解釈学は、哲学者(現象学者)「竹田青嗣」によれば、ニーチェの遠近法の原理をその発端とするらしい。ニーチェによれば「人間の認識は、人間それぞれの欲望に相関している」とする。有名な「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」という名言

さらにハイデガーがこの考え方を発展させ、あらゆる認識は認識する私たちの「気遣い=関心ごと」に相関して、その意味を把握する、という。

ガダマー曰く

人間は誰でもそれぞれ内的地平というものを持っている。人の意識には「地平horizont」なるものがあって、そういう「地平」で、世界を見ている。あらゆる事物、事態の意味は「地平」によって規定される。

本書52頁

このガダマーの「内的地平」の解釈学について、竹田は「そのまま解釈は人それぞれだよね」という「なんでもあり」の相対主義→ポストモダンに行き着くとして批判(『欲望論』第1巻480頁)。

一方で、これを現象学的に理解すれば、誰もがそれぞれの内的地平によって、物事を認識するけれども、そこにとどまらず、他者との関係においてはその都度お互いの解釈をすり合わせることによって共通了解し、同じ認識を共有する、という考え方になります。

つまり、ニーチェがいうように「世界は解釈」でしかありませんが、現象学的には「事実とは、私たちみんなが共有している共通の解釈のこと」であり、これを私たちは「事実」と呼んでいるのです(ここ重要)。

竹田曰く

「客観世界」とは、この各自的な実存世界の存在様態の、間主観的に一般化された形式に他ならない。

(『欲望論』第1巻216頁)

それはともかく「内的地平」は、竹田のいう「現前意識」みたいな概念。私たちはどこまでいっても自分の意識からしたスタートするしかありません。「人間には無意識がある」といっても「無意識」を「意識」しないと、無意識はただの無意識で無意識のままで私たちの前には現れませんから。

どこまでいっても私たちは、今私たちが感じている「いまそのもの」だし、これが自分そのものです。

ガダマー曰く

すべて意味の把握というものは、人が現におかれている状況のただ中からの、地平的解釈でしかあり得ない。

本書52頁

したがって、どこまでいっても、パロールはその時その時点唯一のものであって、その意味は、発した私たちの内的地平に基づく、その時その時点の固有の意味。

これはハイデガーのいう、それぞれの個人が保有する欲望と関心によって生成された「世界(ヴェルト)」をベースに発せられるもので、その人自身でしか発せられないもの。

このように「読む」とはどういうことか、それは、

その言葉が発せられた「話しことば」に立ち返り、その「話しことば」を発した本人の世界(ヴェルト)と発せられた時点の状況をイメージしつつ、そのほんとうの意味を掴み取ること

となるのでは、と思います。

以上、著者の言語哲学を紹介したうえで、それでは著者が『コーラン』を読んだ結果、どのように解釈したのか?  重要なポイントについて以下紹介。

⒋神の啓示には2面性がある

神の啓示には二つの側面があります。それは「ジャマール」と「ジャラール」。これは中国思想の陰陽思想みたいな感じです。

ジャマールは、アラビア語で「美」「美しさ」ということ、ジャラールは「威厳」とか「尊厳」とか「峻厳」とかいう意味。

*ジャマール(陽):美しさ、やさしさ、愛、慈悲
*ジャラール(陰):恐ろしさ、復讐

神(アッラー)は、春の暖かい陽気のような穏やかな側面と、冬の嵐のような厳しい側面とが表裏一体となった性格を持っています。

改めて著者のこの解釈を、自分の『コーラン』を日本語訳で読んだ印象に重ね合わせると確かにそうだな、と思います。

具体的には、神は神を信じれば信じるほど、神の啓示を実行すればするほど、ジャマールに満ち溢れる一方、神の啓示を無視すればするほど、ジャラールの深い淵に沈んでいく、そんな感じです。

そしてその最終ゴールとしての「天国」と「地獄」がある。

⒌『コーラン』構成の三要素

私のような素人が『コーラン』を通読すると、内容があらゆる次元で絡み合っていて、あっちにいったと思ったらこっちにきて、崇高な原理が書いてあると思ったら、日常の些細なことも書いてあって、本当にとっ散らかっている印象を受けます。

ところが著者的には、これらはレトリック的に以下三つの層が複雑に絡み合っているからだという。

⑴realistic(レアリスティック)

歴史的事実や人物描写、法律上の規定など。イスラム教の場合、すべては神が創造しているので、私たち人間にはわかりませんが、神がそうあるように歴史を創り、その人物を創り、神の意志として人間の世界に法律を創っているのです。 

⑵imaginal(イマージュ)

イマージュとは想像上の世界。天使とかサタンとか悪霊とか怪獣とか不思議な木や山や花や、異形のものたち、そういうものが皆が自然物と同等の資格で存在するような世界。私たちが夢で見る世界もイマージュに含まれます。

ムハンマドが預言的興奮状態に入った時に、イマージュが取り込まれるのだろうと著者は言います。

⑶narative(物語)

まさに一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)のストーリーであり、ムハンマドの歴史をそのまま一つの宗教のストーリーとして固定化し、メタ・ヒストリーとして取り込む形もナラティブです。簡単にいうと「神話」。神話によって世界説明するのが一般的な宗教のパターン。

一神教の場合はいわゆる終末論ですね。神が世界を創造する→最後の審判がやってくる→天国と地獄に分かれる。

天地終末の日は必ず来る。そして終末の日がきて、死者が全部復活して、そして厳正な裁判、審判を受けて、まったく新しい存在秩序にそこから入るのだというほとんど感覚的な、あるいは情念的な確信が全体の基盤にあって、その上に『コーラン』的世界像が展開している。

本書245頁

そして因果応報、この世とあの世の善福一致のストーリーがイスラム教なりに展開されるです。

*ナラティブなレトリックスタイル
歴史的に起こった出来事を叙述する代わりに歴史から遊離させて、つまり超歴史的にして、超歴史的な次元で筋をつくりながら物語として展開していく。
→第一のスタイル(レアリスティック)と第二のスタイル(イマージュ)の中間

本書201頁編集

⒍人間と、人間以外を分つ神の教え

ここでは著者が哲学者サルトルの二つの概念(即自・対自)によって解説しますが、原則イスラム教の教えでは、神が世界を創造しつつ、人間だけは他の創造物とは別個の存在として創造します。

神が唯一、意志(意識といってもよい)を持たせたのが人間だからです(生物学的には、人間以外の動物も意識を持つ生き物がいますが、ここでは問わない)。

即自(アン・ソワ):即自存在=自分を意識しない存在=人間以外
対自(ブル・ソワ):対自存在=自分を意識している存在=人間

人間の場合には距離がある。自分のなかに空白地帯がある。空虚、すなわち無があるから、そこで自分を意識する。

本書122頁

即時の場合は、みな無意識に反射的に存在しているので、神が創造したとおりに存在していますが、人間の場合は対自なので、(神の意志として)神が創造した本来的な存在から切り離されている。だからこそ人間は神を信じ、神の教えを忠実に実行することで、本来の神が創造した自分に戻る、と言うことなのです。

だからこそ、神はジャマールとジャラールの2面性をもって人間に対峙しているともいえます、

⒎神がすべてを創造したからこその「存在論」=神への讃美

神がすべてを創造したのだから、創造されたものすべてが讃美されるべき存在です。そして存在することそのものが神を讃美することになる。

なぜ、存在することが神を賛美するかというと、なによりもまず、何かが存在するということは、それが神に創造されたということだからであって、それゆえに、全ての存在者は己の存在の事実そのものによって神の創造の業を讃えることになるのです。

本書121頁

こうやって考えると、イスラーム教はこの世を性善説として解釈しているのですね。私たち人間含めてこの世にあるあらゆる存在は、肯定されるべき存在なのです。なぜならすべて神が創造したものだから。なんと言っても存在するだけで神を讃美することになるのです。

すると「(テロで)自殺する」というのは完全にイスラームの教えに反することですね。

『コーラン』的な世界の場合には、もう何を見、何を聞いても、ありとあらゆる事物、事象についてそれがしみじみ深い喜びとして経験される本源的な実存感覚でなければならないのです。

本書135頁

ただし人間だけは、対自な存在だから迷妄する場合がある。その場合は神の教えを着実に実行することで本来のあるべき姿に戻れるのです(戻れない場合はあの世で地獄に落ちる)。

『コーラン』第49章第13節
まことにアッラーの御目から見て、お前らの中で一番貴いのは一番敬虔な人間
→敬虔=神に対して最もタクワー(=神の畏れ)の強い人

148頁

(私のような無宗教者は、神からみると迷ったままで本来の神が創造した人間にはならないので、死んでしまうと地獄の業火に焼かれることになる)

⒏最後に

以上、長くなってしまいましたが、本書を読むことで、ますますイスラーム教の教えへの理解が深まったように思います。

現象学の信奉者としての私自身は、宗教のような「本体論」をそのまま鵜呑みにはできないものの、神の教え自体は、非常に共感できるものも多い。

そして本質的に、あらゆる存在は、存在そのものが讃美である、というのは本当に心に深く響く素晴らしい考え方ではないか、と思ったのです。

*写真:トルコ アンカラ最大のモスク「コジャテペモスク」(2023年7月撮影)

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