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奈良の風土:概要編

47都道府県を実地検分するにあたり、まずは日本(という政治権力)発祥の地、奈良県を選択。

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(奈良公園:2021年5月。以下同様)

奈良県は南都ともいいますが、奈良という名称自体は、山を「なら」した、つまり山を崩して平らにした地域、という意味で「奈良」になったそうです(諸説あり)。多分奈良盆地の古代の区画整理事業(奈良盆地の川も蛇行せず真っ直ぐになっている)から、この名前が誕生したのかもしれません。

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(大和川)

さて3週間ほど滞在した結果、時間軸と空間軸で、奈良の特徴を整理すると下表の通り、キレイに整理できます。

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■空間軸

奈良県は、中央構造線の吉野川(紀の川)を境界線として、見事に北と南に分かれています。そして南北を接続するのが、近世までは信仰、近現代は電源&水源(ダムや吉野川分水)、と言ったところでしょうか。

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(吉野川:向かって左岸が紀伊山地方面、右岸が奈良盆地方面)

<北部>

古くから日本の中心として栄えた地域ですが、今は奈良市や生駒市に代表されるように、近鉄を中心とする鉄道網が整備されたことにより、関西圏の典型的な郊外として庶民から富裕層まで新たな住民が流入している地域。

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(学園前の高級住宅街)

特に奈良市民の就業状況を国勢調査(2015年)でチェックすると、日本全国平均と比べて教育関係(就業者の構成比:奈良3.1%、全国2.1%)・医療関係(奈良5.9%:全国3.4%)が多いというのも、郊外の生活の場としての立ち位置が反映されているのではと思います。

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(白毫寺から奈良盆地・生駒山を望む)

一方で宿泊飲食業は、奈良2.7%と、全国平均3%よりも低く「奈良は京都・大阪観光の日帰りオプションプラン」と言われる(複数の奈良県人談)のも数字が裏付けしています。最近は県知事の誘致努力によってマリオットなどの世界ブランドのホテルも増えつつあるらしいのですが、まだまだの状況。

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(奈良ホテル)

個人的には奈良県は3週間の長期滞在でも、全く飽きの来ない観光資源満載の県なので、京都・大阪の日帰り観光に甘んじることなく、もっと強力に観光振興に取り組めば、まだまだ発展の余地十分あり、と思います。

<南部>

今は典型的な限界集落で、各村で人口が1,000人未満の村も多く、ほとんどが高齢化率50%前後。

つまり人口の半分以上は高齢者=自営業者&年金生活者だから労働者が少なく、下北山村(人口774人)では、人手不足で他地域からの労働者供給がないと宿泊施設も運営できないらしい。

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(下北山村下池原)

実際に私が宿泊した池原ダム麓の下北山スポーツ公園「きなりの郷」では、下北山村以外からの従業員の方が多いとのこと。

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(下北山スポーツ公園)

また紀伊山地では、水力発電としての用途のダムも多く、特に「池原ダム」は貯水量換算では国内第7位、アーチダムとしては日本一の規模を誇る巨大ダム。

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(池原ダム)

日本一の雨量(年間降水量、十津川村:2,538mm、奈良:1,365mm)を誇る地域なので水を最大限活用するという役割を担っているのが奈良県南部。

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(川上村の吉野川)

一方で瀞峡などの明光風靡な景色も保存すべく、わざわざ「小森ダム」というダムを作って水量を調整しているというのも面白い。

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(小森ダムに至る北山川:上瀞橋より)

■時間軸

列島を支配するヤマト政権のルーツ(古代)となり、興福寺の支配する地域(中世)となり、など日本の精神的基軸として影響力の大きなエリア。

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(法隆寺:国宝五重塔)

奈良盆地の地理的要件が、ヤマト政権を誕生させたというのは前回紹介しましたが、

都が北上して以降は、藤原氏の氏寺として藤原氏の威光を背景に藤原氏の閨閥が支配する興福寺が春日大社と一体となった宗教都市として存続。

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(春日大社:砂ずりの藤棚)

奈良の中心として鎌倉・室町の武士政権時代を通して、興福寺が独立支配していました。太平洋戦争の空襲を免れた今の奈良市街地を形成しているのも、この辺りの集積がルーツ。

中世は、多武峰や

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長谷寺、

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元興寺などの勢力も僧兵を抱えていたそうですが、興福寺には対抗できず、蘇我氏の飛鳥寺をルーツとする元興寺などは、甘んじて興福寺の末寺になったりしたらしい。

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ただ、明治政府による廃仏毀釈(=日本の文化大革命)以降は、隆盛を誇った興福寺もすっかり廃れてしまい、今は観光資源としての立ち位置を確保するのみとなってしまいました。とはいえ必見の国宝ばかりではありますが。。。

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(法隆寺:国宝三重塔)

<南部>

かつては容易に人が踏み込めない聖域で、役行者を発祥とする修験道の山伏たちの聖なる世界。そして宗教自治勢力としての吉野=金峯山寺が、落人を匿った地域。後醍醐天皇が南朝を吉野に開いたというのも、強力な武力を有した金峯山寺を頼ったからだそう。

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(吉野山:金峯山寺)

実際に自転車で走ってみると、その山深さは改めて実感できます。

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(北山川:上北山村)

ただ、戦後の道路行政によって巨額の予算を配分されたと思われ、南北に走る国道は幹線としてダンプやトラックが頻繁に往来するなど、交通量はこの山奥に比して恐るべき交通量ではありますが。。。

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(十津川)

以上概要。詳細は追って、空間軸・時間軸ごとに詳細を整理していこうと思います。

*写真:2021年春:法隆寺

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