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「脳がわかれば心がわかるか」山本貴光&吉川浩満著 書評

<概要>
「脳科学の研究が進めば、いずれ人の心は解明できる」という、(ノーベル賞学者でも信じてしまう)一見真っ当にみえる考え方の原理的な錯誤を、科学的思考の原理と合わせてわかりやすく解説した著作。

<コメント>
「脳がわかれば心はわかるか」→「わかりません」というのが本書の回答。

初版は2004年に出版されているのでだいぶ古い本ですが、内容はいまだ古びていない。私の関心事の一つである脳科学・自然科学の限界と可能性について、哲学的視点から社会的視点まで幅広く解説しています。

◼️脳と心を同じカテゴリーとして扱うのは「カテゴリー・ミステイク」
脳科学や遺伝子、特に脳科学関連の書籍は今に至るまで、たくさん本屋を賑わせていますが、これらは皆「私がわかる本」として、脳が原因で心がその結果だという因果律の宿命(D・カーネマン)から離れられない我々人間の特性を活用した「勘違い本」として扱っています。

「脳の働きが○○だから、あなたの行動や感情や思考が××になる」
「あなたの××という行動や感情や思考は「じつは」脳の○○という働きに過ぎない」

という本です。「なんでも科学で説明できるに違いない」という勘違いが起きるのは、脳心因果説というカテゴリー・ミステイクによるもの、としています。

ここでいうカテゴリー・ミステイクとは、脳の物理的働きと人間の具体的心の動きという、本来混ざり合うことのできない異なるカテゴリーを同列に並べて関係づけようという誤りのこと。

脳科学は、いずれ脳の電気信号と化学物質に基づく物理的メカニズムを解明するかもしれませんが、それは脳の物理的活動の解明というカテゴリーの中での話で、心のカテゴリーとは全く別のカテゴリーの話ということです。

◼️ノーベル賞受賞者も脳還元主義のパラドックス
ノーベル賞受賞者の利根川進でも、DNAの二重螺旋構造を発見したF・クリックでも、哲学を学んでいないと「自然科学が人間の心を解明できる」と勘違いしてしまいます。というか現代人は、ほとんど哲学を学んでいないので皆同じかもしれません。

そもそも私が哲学を勉強するようになったきっかけは「科学で何でも解決できる」と信じていたので「いかに生きるべきか」を科学的に突き詰めた結果「生きる意味はない」に辿り着いてしまって悩んでいたからです。

過去の私含め、彼らが陥っているのは「脳さえわかれば心がわかる」という「脳還元主義」。

心の持っている価値観は、その時の外的状況との関係性において判断されていくので、脳単体の働きをもって心の判断が決まるわけではありません。

これは「言葉」と同じで「明日いいかもね」と文字だけ単体で表現されても、何のことを言ってるのかさっぱりわからないのと同じで周りの環境や状況、文脈から「明日いいかもね」の具体的意味を人間は判断している。

決定的なのは脳還元主義のパラドックス。

人間は自分の意識の外には出られません。世界は自分が作っているので、作っている自分そのものは決して外から見ることはできません。仮に医術が進歩して脳の神経活動を可視化できたとしても、それを見ているのもやはり自分が作る世界のパーツの一部分。どこまでいってもこのような入子構造。

自分自身の意識(=現前意識:竹田青嗣)は認識の主体なので、意識自身を我々は確かめることはできないのです。

哲学の世界では、紀元前に生きていたプラトン・ソクラテスが既にこのことを解明しています。心の世界は科学が扱う「事実の領域」ではなく、「価値(本質)の領域」なので解明はできないのです。本書では価値の領域を「脳の機能」の領域と表現しています(一方で脳科学は脳の構造の可視化)。


◼️大森荘蔵の重ね書きという処方箋
それでは、事実(科学)の領域と本質の領域(本書では「日常の経験」と表現)にはなんらかの形で関係しているはずですが、どのように哲学者は考えたのかというと、その事例として哲学者大森荘蔵の「重ね書き」という考え方が登場します。

彼は、科学の記述(大森の言葉では「科学的描写」)は日常の経験の記述(大森の言葉では「日常描写」)に並べられるようなものではなく、その上に重ねられるべきものだと言います。たとえば、夜が明ける前の薄紫色に染まった空を眺めて、その風景を「美しい」と述べたとします。「美しい」という言葉が日常描写とすれば、科学的描写は「光波が眼に到達し、それによって脳細胞が興奮する、云々」となります。どちらがより本当の記述か、という問題ではありません。科学描写は日常描写とはちがう流儀によって、風景を見ているという経験を記述しています。

これに関して社会学者大澤真幸が

日常描写は必ずしも科学的描写を必要としませんが、科学的描写は日常描写というカンヴァスなしには不可能です。そして、カンヴァスとしての日常的描写と科学的描写との関係をつけようとした場合にかぎり、心脳問題が立ち上がるのです。

ということで日常生活の経験をキャンバスとして、科学の視点で記述しているようなイメージ。

そして現象学を提唱したフッサールの登場です。

フッサールは講演「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」において、ガリレイとデカルトによる自然の数学化(数学によって自然を記述すること)が生活世界から離れて独り歩きしており、そのことによって諸学は危機に瀕していると考えました(エトムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』細谷恒夫、木田元訳、中公文庫、1995)。そこでフッサールは、元来科学もそこから出発しているはずの生活世界に立ち戻って、それとの関係のなかで諸学を基礎づけなければこの危機を回避することはできない、と考えたのです。 一見、この問題設定は大森の考えかたに通じているように見えます。しかし大森は、フッサールが科学の記述と日常の経験を峻別して両者がまるで別の世界であるかのように考えていることを批判しています。

とのことですが、大森荘蔵はフッサール現象学を正しく理解していないように感じます。むしろ、重ね書き理論よりも、現象学理論の方がより説得力があります。

フッサールは、誰もがそうとしか思えない数値化された事実を科学と表し、科学の世界は自分が作っている世界のうちの一部という認識であって別の世界という認識ではありません。

◼️科学の原理ー同一性と一般性
科学の原理は、科学哲学者カール・ポパー が「科学の原理は反証可能性にある」としましたが、本書によれば、テレビ番組の「ほっまでっか」出演の生物学者:池田清彦氏もほぼ同じ内容のことを言っています。

池田によれば、科学は真理を目指すのではなく「同一性」を目指す営みです。変化する自然現象を、変化しない同一性(言葉)で記述すること、これが科学の営みだというわけです。簡単すぎるくらいですが、これ以上の定義はありません。

フッサールの考え方「誰もがそうとしか思えない数値化された事実が科学」とほぼ同じことを言っています。

したがって1度しか起きない現象は科学の領域では扱えません。法則性を見出せないですから。でもこの現実世界は一度しか起きないことばかり。なので「確率」「統計」という手法によって傾向値としての法則(一般化ですね)を導き出す形で「このようになる場合が多い」というレベルでの一般化の手法(中範囲の法則という:ダンカン・ワッツ)も多用しています。

以上、このほか社会理論的ジャンルもあって省略してしまいましたが、いずれにしても本書は科学を信奉する知識人から「役たたず」と言われている「哲学」の真骨頂が味わえる良書ではないかと思います。

*写真:2017年栃木県 日光 湯の滝

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