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「富国は、哲学に優先する」政治哲学の欠陥

最近、プラトン勉強の流れで、リベラリズムやコミュニタリアニズム、リバタリアニズムなどのアメリカ政治哲学を勉強していて感じるのですが

「哲学の理論だけで政治をしてはいけない」

ということ。

もちろん哲学も重要ですが、その前にもっと必要なのは「我々がどうやって食っていくか」ということです。政治は第一義的に「多くの国民が衣食住満ち足り、健康で寿命を全うできる社会」を目指すべきなのに、哲学の世界では「世の中は経済的に常に満たされている」というのが前提になってしまっているため、「使えない」議論になってしまうのです。

結局政治哲学でもっぱら議論しているのは「自由と平等の配分とその理屈づけ」と「物語への依存度合い」です。

現実に生きる我々は、まずは生きていくために「どうやってお金を稼ぐか」が人生において最も重要。政治的には、どのような政策を採用すれば国がもっと豊かになるのか=経済成長するのか?ということ。

その上で、自由だとか富の分配だとかアイデンティティだとか、政治哲学という知見を活用して、制御していく、というのが政治のあるべき姿。

リベラリズムやコミュニタリアニズムやリバタリアニズムを政治が採用しても経済発展して先進国になれるわけではありません。つまりどのような政治体制がより経済成長が可能な体制なのか?という議論が政治哲学には決定的に欠け落ちているのです。

お金を稼ぐ方法は、哲学の領域でないのはもちろんですが、現代政治哲学が提示した上記のような各種主義が、「お金を稼ぐ」という視点でみた時にどのような体制がベストか、という視点で専門家の方もしっかり考えてほしいと思います。

個人的には、各種歴史書や文明論、経済学なども勉強した現時点では、最も経済成長が望める社会は、

公正な環境(=法の支配)と多様性(=自由至上主義)を担保した上での徹底した実力主義(=階層の流動化)を実現した社会

が、より永続的に経済成長できる社会を実現しているように思うからです。

一方で前回展開したブログでも紹介した通り、先制政治の中国共産党は、ある程度経済成長への道筋をつけるのに成功していますが、長期的には政治的多様性を排除する体制なので、例え経済的多様性を活性化させたからといって、イノベーションという観点で自由主義に劣る体制ではないかと思っています。しかも今後ますます加速する超高齢化と人口減少で国力は徐々に衰退していくでしょうから、今のうちに自由主義社会と関係改善しておいたほうが国益に叶うと思うのですが、未だその兆候はありません。

ということで、まずは富国。そのうえで政治哲学的な要素を加えることで、より多くの国民を幸福にしていく、というのが政治のあるべき姿だと思います。

とはいえ、引き続き哲学は勉強していくつもりです。

*写真:2021年 皇居外苑

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